天使――それを目の前にしても、不思議と畏れは抱かなかった。何故か――思い当たる節は幾つかあるのだが。
「まさか――天使を目の前にする事があるなんて、な」

「エッジさん――実は、信じてませんでしたか?」
「……まあ、そうかもしれないな」
 信仰の強度で言えば、彼自身は大した物では無い――少なくともウィンディアやフィラネスに比べれば余程小さいだろう。それゆえかもしれない――もっと他の理由も思い当たったが。
「とはいえ、そんな信仰の薄い奴に見せてくれたんだ……有難いな」
「信仰だけが重要だっていう訳じゃあありませんから、ね」
「狂信者の類に聞かせてやりたいもんだ……」
 フィラネスの事を思い浮かべる。彼からすれば、最早狂信者の域に達しているようにも見えた。とはいえ、彼が受けたと思われる天啓の一つは事実だったのだが――
「天使が降りてきている、と言う事だけは……そういえば」
「どうか――しましたか?」
「使命というのは?」
「そう、ですね。それも、話しておくべきではあるのですが――」
「あるが――どうかしたのか?」
 漠然としたものですから、と言う。それは――守護の使命。彼女自身、様々な事を知らないままその使命のまま降り立った――何から守護すると言うのか――近い未来に見えると言う影。影とは何か――分からない。
 そのように聞いていけば、エッジの頭に様々な考えが渦巻く。
「影、とは漠然としたものだな……とはいえ、今考えるならば」
 フィラネスの受けていた天啓、それを考えるならばやはりその影と言うのはルシファーズウイング――なのだろう、とエッジは思った――確信ではないがおそらく正しいのだろう。
「人の喧嘩に割って入るような感じ――というか、俺達側の援軍といった雰囲気だな」
「そうなのでしょうか?」
「まあ、少なくとも俺から見るとな」
 アセリアを前にこのような事を言うのに問題を感じなくもないが、色々な事が頭の中にあるためそういった考え方がつい口に出てしまう。
 とはいえ、問題が彼女にある訳でも無い。軽率だな……と軽く自嘲するも、彼女自身はエッジの言葉の孕んだ意味についてよく分かっていないらしく、それについて若干安堵してしまう。以前渡した本に関しても、彼女はどちらかと言うと内容の文面通りに受け取りやすいようにも思えた。

「純心と言うべきか」
 神聖、善、正義、愛、光――ありとあらゆる魅力的なイメージを注ぎ込んだかのような神格性を、この地に生きる人々は天使に見出してきた。幻想の中の物語としてだけ捉えていたような人も多い現在ですら続いている信仰、果たして教会の出来た当時はどうだったのだろうか。少なくとも作った人物は天使と言う存在に余程の感動があったのだろう。想像はつかないが。
 そして、天使の心に闇は無いと捉えられてきた。本当にそうなのかどうかはどの人間にも分かりはしないが、染みついたイメージはそう思わせるに十分だった。闇が無い、それゆえ純心。裏の無い想いを目の前の彼女が湛えている。ような気がした。
 つまり、エッジはよくあるようなイメージをそのまま――とはさすがに言えないが、アセリアから感じていた。信仰する者の気持ちも分かるような気が、彼にもしていた。

「――お前の声だったら俺にも聞こえたかな?」
「……それって、もしかしてさっきの声の事ですか?」
 さすがに分かるか――言うとエッジは手近な椅子に腰かける。目の前の光とは気楽に居れる。どうしてこれほどまでの安心感を彼は感じるのだろうか。
「神の言葉に耳を傾けない俺の事をどう思う、アセリア」
 傾けない、というよりそもそも自分に対しては言われていないのだろう、聞こえないと言う事は。とはいえやはり相応の理由ゆえの事。
「いえ――それがエッジさんの汚点になるかと言えば、わたしはそうは思いません――どうしてでしょうね。もし他の人だったら悲しい気持ちになりそうなんですけど、不思議とエッジさんならそうでもないんです」

 光が消える――翼は閉じられた。そしてそこにいるのはまるで先程と変わらないように――アセリアが微笑む。エッジも、本人なりに笑顔を返して見せた。
「次はウィンディアに見せに行くんだろう? 色々話さなければならない事も」
「そう、なんですけど……エッジさん」
「ん?」
「少しの間だけ、二人の秘密ってしてみませんか? エッジさんがくれた本に書いてあったんですよ。仲良しになれるかもって」
「……はは、アセリアがそれでいいならそうしてみるか?」
 それでいいのか、大事な事だろう――そうは思ったが、いい気分だった、何となく優越感を感じるような――ふと冷静に彼が自身の事を考えると、彼の感情の向き方はまさに本のようだった――アセリアの感情は分からないが、もしかしたら――そんな期待が全く無かったとは言えないだろう。
 

 二人の声――あまり大きな声でなかったゆえに、耳を澄まさなければ聞こえないほどだったが。一人、聞いていた。
「エッジ、アセリア……聞こえてはいないと思うけれど」
 未だ夜中、暗い中に溶け込むように。
「ありがとう、ようやく見つけられた」
 見えてきたものは――


    *


 まるで天国のような気分の夜から覚め、僅かに光差しこむ窓に目を向ければ、破壊された街の一角が目に入る。ある程度の時間は経過したのだが、やはり現実を見ると気分の一つ二つは落ち込みそうになるものである。だからといって気分のまま項垂れていては何も変わらない――
「時間は……問題無いようだな。さて――」
 布団を退け――とりあえず直してはおく。準備は整っている――荷物を持つと扉を開き――

「エッジ起きてる?」
 ゴッ……と小さな音が響く。扉が思ったより素早く開き、早くも物理的に文字通り出鼻を挫かれる羽目となった彼は、幸先の悪さを少し感じる事になってしまった。


「うん……その、ごめん」
「気にするな、大した事は無い……どうせこの先死ぬほど厳しい目に遭うんだろう。この程度で痛がっている訳には行かないからな」
「痛くないのか?」
「いや……案外、痛い」
 プレアは普通に扉を開けたようだが、押す力引く力合わされば……とはいえ、誰が悪い訳でも無い以上は何とも言い難い。
「もう全員起きてるのか?」
「何か声が聞こえた後、結局エッジ以外寝てないみたいだけど」
 例の声……やはり若干気に入らない所はある。どうしても表情に出てしまう所があるが……少し考えた結果、エッジはこれをフィラネス辺りに対するささやかな反抗と言う事にした。さて、プレアがどう思うか――
「ああ……興奮冷めやらぬと言う事か? 羨ましい物だが――」
「そうでもないよ、あんなの……」
 しかし、プレアの表情はエッジの想像と異なり、冷たい物のように思えた。
「プレア……?」
「……ああ、いや。強く信仰してる人にだけ言葉を伝えるって、案外神様もケチなんだね、って思ってさ」
 ふと目が合う。何故だか、プレアの表情がやけに険しく感じる。下手をすればそれまで見た事の無いような――どうした――そう口を開こうとしたその時、プレアが言葉を続ける。
「エッジ、天使は人をどう見てると思う?」
 あまりにも不意だった。何だ、その質問は……だが――目を離すことが出来ない。笑えない――
「分からないな……案外、人と似たような感じなんじゃないか?」
 ただ、裏表はそんなに無さそうだな……そう言うと、二人とも前を向いた。心中は垣間見えない。


    *


「遅れた――わけじゃあ、ないみたいだな」
 手紙では、街の門に集合するという事だった。エッジとプレアが外に出る頃にはウィンディアとアクアの姿は無かった――先に出たのだろうが、しかしまだ集合場所にその姿は見えない。ただ、呼びつけた本人のみその姿があった。評価できる事だろう、呼びつけておいて寝坊されたらたまった物では無いのだから。しかし、ふとエッジは引っかかりを感じる。
「フィラネス……何か、お前」
「どうかした?」
「……いや、何でも」
 気のせいか、フィラネスに違和感を感じる。偽物とすり替わったとかそういう事はさすがに無いだろうが、言葉に表し難い――あえて言うならば、近づき難くなったような、そんな感覚。ただでさえ近頃はエッジ自身フィラネスを敬遠しがちだったが、逆に相手から障壁を張られたような――そんな状況。
(いや――昨日の今日、不思議でも無いか)
 少し前に自分の言った言葉を顧みれば、そうなっても不思議ではない――神への冒涜に近い、或いはその物の発言。あっさりと納得付く理由が見つかった。
「まだウィンディアとアクアは来ない、か」
「エッジが起きる前にもう出てったんだけどなあ、ウィンディア。アクアなんて更に前に出てったし」
 だが、納得の行ったはずの違和感が拭えない。それは何故か。エッジの試行が渦を巻く。
「エッジ」
「……ああ、何でもない。寝起きで頭がぼーっとしているだけだ……ん?」
 ふと声をかけて来た方を見ると、アセリアだった――呼び捨てられたから一瞬誰だか分からなかった。
「いつもと違うな……」
「あ、その……やっぱりさん付けの方が――」
「ていうか、いきなりだったからな」
「プレアさんが言ってたんですよ――」

『アセリアのようなちょっと礼儀正しいのは、特別な人だけ呼び捨てると言われた相手はグッとくるっぽいぞ』

「プレア……お前、アセリアとどんな会話してるんだ?」
「え? どんなって、ほら……その本いい話だよなーって」
「……はあ」
「エッジ、さん――」
「いや、いい」
「え?」
 何をすればいいだろうか、そう考えるより前に彼女の頭に手を置いてみた――不安気な表情になっていたアセリアの表情がみるみる変わるのが分かる。自身は表情を変えないように頑張る――意味があるかはともかく。
「構わないさ、俺は既にアセリアの事を呼び捨ててるしな」

「そ、そうですか!? じゃあ、エッジ! エッジ! エッジ! ……えへへ」


「うーん」
 これを見ていたプレアは、尻尾を振りまくる犬を想像したという。
「本当に仲良いな……これぐらい、分かりあえれば」

「羨ましい?」
「ひっ」
 プレアの真後ろに音も無く立っていたそれは、透き通るような青い髪をたなびかせている――茶目っ気が少しあるのだろうか? それとも、特に意味は無いのだろうか。
「死ぬかと思った……」
「肝は小さいみたいね」
 涙目になっているプレア相手に悪びれる事無く、アクアはフィラネスを一瞥すると目を閉じた。
「フィラネスはあんな感じだった?」
「それって――夜中と比較して?」
「やっぱり、分かるものみたいね……ところで」
「ところで?」
「貴方もいずれいい出会いがあるんじゃない?」
「俺そういうの気にしてないですし……」
 意外とこのような話に敏感なアクアに、少しの驚きを隠せないプレアだった。
 

「……さて、ウィンディアはいつ来るのやら」
 アセリアと会話を続けていたエッジだが、気付けば数十分近く経とうとしていた。にもかかわらず、未だ現れない親友に痺れを切らし始めるのも至極当然の事だろう。プレアも、自身も少し遅れていたアクアも同様だった。フィラネスの顔色は窺い難い。
「さすがに、ウィンディアを置いていく訳には行かないでしょうね」

「そうだね。君達だと、ウィンディアとアクアで六割ぐらいだろうからね」
「……いきなりだな」
 教皇様の突然の痛烈な言葉にエッジは顔をしかめるが、彼自身の判断もそれには近かった。二人が今の立場である理由――その一因とも言えるのがこの差であった。
 よくよく考えれば、教皇のフィラネスに大司祭ことウィンディアとアクア、そしてもう一人の馴染みであるラーヴァは全員が所属していた騎士団の現団長。エッジはただ一人のいわゆる一般枠だった。
(しかし、面を合せて言われると癪に障る……)
 舌打ちは心の中で済ませる。出来る事なら直接的に発散したい所ではある――が、相手の立場が立場、よくて処刑で悪ければ処刑後首晒しと言った所だろうか。リスク云々を通り越して死亡確定である以上はどうしようもない。
 そのような事をしない――とも、「かつての」友人である以上は思いたい所だったが、何故だろうか。今の彼なら躊躇わない――そんな気がする。いや、或いは「何故」などと言う言葉は必要ないかもしれない――他の面子とは違い、今この状況で彼と友情があるようには思えなかった。
「……エッジ。そもそも、君は付いてくるのか?」
「そう来たか……お前、いつの間にか俺の事大嫌いになったな」
 分からないでもないがな……そう彼自身も思う、思うための理由はある。それでも、まさかこれほどまでに直球で投げて来てくれるとは思わなかった。少なくとも、夜中の時点ではもう少しオブラートに包んだ気もするが。
「今日の会話ぐらい忘れていないぞ……夜は俺の事も頭数には入れていたよな?」
「まあね――でも、不安になったんだ。だって、この中で君は――」

「天啓……ちっ」
 今度は表に出さずにはいられなかった――言ってくれる。
「ちょ、ちょっと――こんな険悪な事になるか?」
 突然出来てしまった敵対の図に焦るプレア――一方で、

「言い過ぎね、フィラネス。一晩の間に一体何が?」
「アクア……まあ、そうだね」
 反省したのか否かは分からない――とはいえ後者だろう――が、フィラネスは背を向けると、それきり何も言わなくなった。アクアもそれに無言で返す。居心地の悪さにプレアは若干狼狽えていた。
 
「エッジ……元気、出してください」
「元気を失ったわけじゃない。ちょっと、がっかりしただけさ」
 若干以上に、強がりも入っていた。だが、それは見せたくない。
「しかし、まだウィンディアは来ないのか。アクア、ウィンディアは何か言ってなかったか?」
「出るより前にお祈りしてくるって言ってたけれど……どこかで倒れてる?」
 嫌な想像である。
「ウィンディアってそんな貧弱だっけ……違うよね」
「まあそれは冗談としても、さすがに異常だけれど――」
 
 刹那、風を切るような音が聞こえた。音を掴み取る……一本の矢。
「突然の事態ばかりだが……これは何だ?」
 何処からか飛ばされた矢には、何かが括りつけられていた。
「矢文……誰か宛てのラブレター?」
「この矢、殺傷力ありそうな矢尻付いてるんだけど……」

「嫌な予感がするな……えっと」
 とりあえず、さらりと読み流してみる。ああ、そうか、なるほどなるほど――

「やはり悪い知らせだ……」
 溜息を吐いてみせる――プレアやアクアにも伝わったらしい、ウィンディアが現れないその理由。

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