前に進むか後ろに戻るか。結果から言えばそれはどちらでもよかった。考えず動く事こそが最も重要だった事を、背後から感じる冷気が教えてくれる。振り返りまじまじと見る暇など無かったが、地獄の針山の如くそびえる氷の柱は当たった場合の結果を想像させるには十分な恐怖を与えていた。
「いい判断、ですね」
「どうも」
 咄嗟に剣と鞘を振りかぶり、紙を切るかのように挟み込む――が、剣と鞘、そして対象である女のそれぞれが風を切り、金属音だけが後に残る。空を見上げる者と、地を見下す者――空に魔法陣が広がる。
(参ったな……)
 手が届かない。止められない、そして何が飛んでくるのか、どこに飛んでくるのかの判別が利かない。先程は懐に潜り込む形で回避したが、相手は跳びあがったまま。ここで自分も跳べば、逆に絶好のカモと言った所か。思考する間にも空がより青く染まっていく。
「次も氷魔法……プレア! 相殺!」
 言葉は返ってこない。それを気に留めず、エッジも魔法陣の展開を開始する。赤い色の魔法陣は炎の魔法、全てを焼き払う力。可能な限りの火力を狙うしかない。
 ファイアボール、エクスプロード、或いは更に上位の魔法を狙うか。発動できなければ意味が無い。しかし弱い魔法で止められるとは思えない。生死を賭けたチキンレース……だが。
「凍てつけ……あっ!?」
 突如、青い魔法陣が揺らぐ――女の心臓を狙い、一本のナイフが放たれていた――突然の攻撃を体を逸らして回避するが、集中を乱す事は魔法にはご法度。それを視界の端に捉えたエッジは最大火力の使用を決定した。魔力を一点に集中、自分も受けるかもしれない妨害の事は気にしない。失敗したら諦めるのみ。……死を以て。
「『エクスプロード』、ありったけの魔力で……受けてみろ!!」
「それぐらいの魔法で――止められると思わない事ですね」
 炎のエレメントが収束――そして膨張する。名前の通りの爆発――著しく溜めこまれ、圧縮された熱エネルギーの暴走。通常通りに発動しても強烈な火力を持つそれは、魔法の相殺に使うには過剰かと思われた。爆発の衝撃が周囲を吹き飛ばす――衝撃が木々をなぎ倒す――直撃すればまず命は無いであろうそれはしかし、一点には届かない。

「防いだか……?」
 一見、過剰なまでの魔力を注ぎ込んで放った魔法なのだから。
「そう思うのですね?」
 それでも、爆発の向こうに青く光る何かが見えた。それは熱をものともせず突っ切ってくる――氷の弾丸だろうか。融ける気配が無いそれは、今、エッジの命すら凍てつかせんと迫りくる。
「ふざけてるのか……!? 何の冗談だ!」
 魔術専門でやっているような人物ほどではないにしろ、彼はそれなり以上の実力を持っているはずだと自負していたが、まさか熱を以てして氷を融かす事が出来ないとは。もう一人の敵である男にも大敗を喫したが、またも彼は敗北を決定付けられてしまっている。ましてや、相手は魔法詠唱の妨害までされたというのに!
「貴方はここで終わり――」
 あと一秒も無い、そして爆発を通過して氷の弾丸が露わになる。その向こうで勝利を確信する女――しかしその表情は突如厳しい物と変わる。弾丸が、熱地帯を抜ける直前で、蒸発した――何故?
「エッジ……大丈夫か!?」
「ああ……精神的に大分厳しいがな」
 突然熱エネルギーが増幅されたように感じた――それは、プレアが別の魔法を放ったゆえ。
「重ねて撃てればよかったんだけど……」
「ピッタリ合わせたりでもしたら、俺達自身も巻き込まれかねないな」
 二重魔法。同じ魔法を重ねる事でそのエネルギーを爆発的に増幅させる。高等技術だが、狙えない事は無い。とはいえ、もう少し余裕のある状況下でなければ困難だろうが。
「たった一回防ぐだけでこの苦労」
 何度も続けられる物ではないこの苦労、どのように打開すればいいだろうか? 女は地上に降り立ち、エッジとプレアを見据えている。果たして隙を突けるか。あるいは、やはりどこまで行っても防ぐ事が限界か。

(考えろ……考えろ、何とかするんだ)
 相手に油断する素振りは無い。強い敵を討つならば相手の不意を突くのが定石だがそれは見えない。ほんの少しの油断が、強大なドラゴンすら地に伏せさせる事になるのだが。
 先日の戦いで何も出来ずに敗北した事が思い返される。また繰り返す訳には行かない。何より――

『でも、不安になったんだ。だってこの中で君は――』

「ここで引いてたまるか」
 つぎ込んだ魔力の回復には本来、かなりの時間を要する。だが、待ってられない。唯一思いついた方法を試すには、また多量の魔力を求められる――だが、彼にはその手がある。懐から包みを取り出す。
「エッジ、それは……?」
「薬だ」
 サッと開き、中身を喉に流し込めばそれが浸透してくる感覚を感じる。失われていた物が体中に染み渡り、再び魔力が漲る。備えあれば憂いなし、魔力を回復するための薬はいつも用意されている。薬を作る者はその重要性をよく知っている。
「プレア……奴の隙、絶対に突け。今から作る」
「作るって、どうやって……」
「芝居を打つんだよ」
 えっ、という声を気にせずまた魔力を集中させ始める。再び魔法陣が足元に展開され始めるが、それは赤ではなく何色とも言い難い謎の輝きを放っている。
「まさかとは思うけれど……」
 見覚えの無い色が視界に広がるのに動揺を隠せないプレアだが、何をせんとするかは理解できた。急ぎアクアに接近する――が、彼女は何かを手に構えていた。
「大丈夫。プレア、失敗しないように」


 その女でも、その魔法陣が何を意味するかは分からなかった。人間は危険には基本的に近寄らないように出来ている、それゆえ得体のしれない何かを止めると言う行動にでるのは自然な事だろう。無論、ただのハッタリという可能性も考えられなくはない。とはいえそれを前提として動くのは極めて危険であると彼女は判断した。
「逆転の一手を打たせる訳にはいかないですね」
 魔法の詠唱を止める方法は一つ。その集中を解いてしまえばいい。弱い魔法であれば小説本を読みながらですら放てる者もいるだろうが、見覚えの無い色イコール余程珍しい魔法がそんな物であるとは思い難い。
 集中を解く方法と言えば、手を出す事。
「悠々と魔法を放とうとするなんて、気が触れているのですか」
 女は何も持っていない――しかし、その強化された身体能力、詠唱妨害程度は素手でも問題無い!

 想像の上を行かれたらどうするか、などと思ってはいたが、想像以上に事態が単純な動きを見せた。理想のパターンに当てはまった事を確認したエッジは、それを放つ。


    *


「教皇め……力による支配でも成し遂げようと言うのか?」
 一方で、フィラネスは確実に敵を追い詰めていた――傷の一つも無い。呼吸の一つも乱さず、常に最高の行動を見せている。その様は異常と言う他ない。これこそが彼の実力。疑いようの無い神の祝福。
「君達が身勝手をしてくれるからだ、どれだけの信徒が苦しめられた事か」
「貴様達は逆に我々を苦しめてきた……そんな連中がどの面でそう言うのだ!」
「信じる者は救われる」
「信じない者は死ねとでも言うのか!?」
 フィラネスが剣を振りかぶる、それを男は後ろに下がり回避した――かと思われたが、フィラネスはそのまま剣を投げつけた!
「信じないからじゃない。最も問題なのは……信じる者への、そして神への攻撃」
 うっ……という声。剣は当然のように突き刺さる。突き刺さった先は胸部の近く――もう少しで仕留めていた、しかし確実にその傷は致命傷となるだろう。最早、完全に勝負は付いていた。
「化け、物か、きさ……」
 声を出す事すらやっとなほどの傷。貫いた剣先から滴り落ちる、黒みがかった血。
「神の意思に従い、裁きを下したのみ。さあ、終わりにさせてもらうよ」
 剣を引き抜くと男はまた呻き、顔は苦悶の表情を見せる。今、一つの命を神の名の下に浄化する。


    *


「開け! 次元の裂け目よ!」
 自らの心を奮わせるように――叫ぶ。今、どのような表情をしているか、彼自身は分からない。ただひたすら、必死に。
「次元の裂け目……!?」
 女の頭に警鐘が鳴り響く。やはりこの魔法陣が危険な物であった事を確信する――まだ発動出来ていない今、これを断とうと――した所で、彼女の目が見開かれる。

「思ったより単純なのね……いえ、もしくはピュアな心の持ち主なのかも」
 女の背中に突きたてられたナイフは、その存在感を示すように月の光を浴びて輝いていた。痛みすらその瞬間には彼女に示されず、ただただ何が起こったか分からず前に倒れかける。その体がエッジに当たる――何か、固い物が同士が当たる音が響いた。

 キーン……

(……何だ? 今の音)
 その女の服のどこかに、何かが入っている。何故かは分からないがそれが異様なほどに気になった。放とうとしていた魔法を捨てる――魔法陣がまるで霧霞の如く消え去ると、エッジは剣を構え一閃する――それが自分を正確に捉えられていない、そう思ってしまうほど女は不意の事態に混乱していた。そして、その目的が判明した時にはもう遅い。
「っ、しまった……!?」
 何かが落ちる。それは――黒い石。何の変哲もない……訳ではなく、おそらく、闇のエレメントらしき物が詰まっている。そして、女の今の反応。思わず、こぼれた黒い石を拾い上げる――

「!」
 何か、寒い物が背中を駆け上るような。そんな気味の悪さを感じた。しかし、過ぎ去れば何も無い。
「気のせいか……?」
「その石――」
 一方で女は手を伸ばす。その石を取り戻そうと――

「『ファイアボール』!」
 女の調子は崩れた。そして最早、次に放たれた一撃を避ける程の余裕すらない――力の差は歴然だったはずなのに、たった一つのミスが敗北へと導く――複数放たれた火の玉の一つが女を捉えた。
「あっ!? いやあああ!!」
「……油断無くとも、勝機があったか」
 熱エネルギーの直撃。女は地に倒れ伏す――勝ち目は無いとさっきまでは思っていたのに、終わってしまえば呆気なく、あっさりとした物だった。勝負は時の運――あながちそれは間違っていないのかもしれない。
「まあ、人間失敗ぐらいするよな……そしてお前の失敗がたまたま今回だっただけだ」

 周囲を見渡せば――絶望の表情。
「そ、そんな! あの二方が……」
「負けた!? どこまで連中は無情なんだ!」
「あの二人を守れ! 命に代えてでもお守りしろ!」
 それでありながら、一度は戦意を折られたはずの者達が突っ込んでくるのは中々の恐怖であろう。とはいえ、敵ではない。
「プレア、アクア! 任せた! ウィンディアの救出も!」
 エッジは――女の腕を掴んだ。
「えっ!? わ、分かった!」
「情報源獲得……と」

 アセリアは一人、周囲の雑兵に威嚇の意を込めて光の魔法を放っていた。光の魔法――それは敵の戦意を折るとされている。遂になる闇の魔法は心を蝕むともいう。
 そんな彼女の元にエッジが駆け寄ってくる――
「アセリア、手伝ってくれ……こいつを連れて行く」
「は、はい! でも――何を手伝えば」
「引き摺らないように足持ってくれ」
 腕だけを掴んでいたせいで、女を完全に引きずる形になっている。もう気を失っているのか何も反応は無いが、それでもさすがにこれはどうだろうか。アセリアが足を持つと、女は地から離れた。
「しまった、あの男、連れ去る気だ!」
「待て、貴様――」

「ああ……何か凄く悪役っぽいよね」
「まあ、そうかもね……でも、これで気が逸れたわ」
「え?」
 アクアが指差すのは洞窟――ああ、そうか、とプレアも手を打つ。アクアが洞窟へ飛び込んでいく――無論それに気付く者も多々いたが、火の魔法を乱射するプレアと、自分達の上司を連れ去ろうとするエッジに気を取られてしまいその行動は鈍るばかりだった。


    *


 周囲から斬りかかられ、さすがのフィラネスも回避行動を余儀なくされる。しかし、問題は無い。どっちみち、一つだけ判明している事がある。
(あの男は敵ではない)
 仮に逃がしたとして問題は無いし、逃げたとしてそもそも生き残らない可能性もあるほど。だったら、無理に止めを刺す必要も無い。しかし、彼の頭に響いた声はそれを許さない。

  ――その男を逃がしてはならない――

 ――何故? しかしその理由は分からずとも、それが神の意であるならば――しかし、それを成し遂げられない。気づけば――完全に包囲された。
「……構っている暇は無いんだ」
 その全てを難なく蹴散らした――しかしその時、男の姿が消えていた。

「……そんな」
 彼からすれば、それは初めての失敗。神の意に応えられなかった、これまでで唯一の事柄。


    *


 山を駆け下りる。おそらくいくらかの敵が追って来るだろう。今の内にアクアかプレアがウィンディアを助け出してくれるはず。もし今抱えている女と同等の敵がいたとしたら――その時はその時だ。
「エッジ、どうしてこの人を……?」
「気になる事があった。それに、気を逸らすのにも使える……更に、敵戦力の削減にもそのまま繋がる。一石三鳥」
「なるほど……ところで、ウィンディアさんを助けるのは――」
「それはアクアとプレアがやってくれる。多分、大丈夫だ」
 忘れたとでも思われたのだろうか。……いや、そう思われても仕方は無いだろうか。彼は自分の行動を第三者の視点で考えてみる――確かにおかしいかもしれない。とはいえ、彼はこの行動を選ぶ理由は説明出来た。
「まあ、敵にもっと戦力がいればここで全て投入するぐらいでもよかっただろう。言ってしまえば、教会は騎士団除けばフィラネスのワンマンに近い」
 だから、さっきのタイミングでその場にいる全員が出たのだろう……そう考えた。彼は浅はかだろうか、しかし敵の表情がこの論を支える。
「それにあいつらの表情、凍り付いたかのようだったしな……この女含む二名が負ける事なんて予測できてなかったんだろう。そして保険も無かったと」
「だからもう勝ったと?」
「ああ。それに、フィラネスの方もほぼ決まってたみたいだからな。仮に新手がいてもあいつが何とかしてくれるだろう」
 若干それに期待もする。少し気に入らないから、面倒を押し付けてやりたい気持ちも働く――自分は少なくとも想定外のレベルで仕事を行ったとエッジは自己評価する。
「……わたし、手が出せませんでした」
「直接戦うタイプじゃないのか、そういえば。襲撃の時は一体何を使ったんだ?」
「えっと……ピカーっって光って、目眩ましを」

「え……え? アレ、目眩まし?」
「はい。その隙に攻撃を」

 酷い戦法だ。エッジはそれを口に出さない事に苦労したと言う。
「多分、さっきやったらエッジも……」
「うん、まあ、うん。迂闊に使われたら辛いな」
「はい……」


    *


 外から響いていた戦闘の音が薄まり、代わりに足音が近づいてくる。顔を上げその方向を見やれば、見知った顔が近づいてくる。
「アクア!」
「見つけた。無事だったみたいね」
「ま、まあ。大丈夫だったのか!?」
「ええ。問題無く」
 自身のトラウマにもなりかけるほどの強者、そしてそれに匹敵するであろうもう一人がいた中、アクアが目立った傷も無く自分を助けに来た。不審とすら言ってもいいほどであり――
「……実は嵌められてるとかじゃあ」
「いいえ。ウィンディア、一つだけ私が分かった事教えてあげるわ」
「?」

 その笑顔はそうそう見られる物では無い。
「いくら強くても人間、失敗はあるみたいよ」

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