スノーリウムは日の昇るは遅く、日の落ちるは早い。それゆえ、光のみを頼りに眠りにつけば、明日の時間は犠牲となる。
「う……朝、か……」
 一方でエッジの朝は早い。一日の四半刻も経たない内に彼は目覚めて外に出ては、闇に満ちた空を見上げる。これが、彼の一日の始まりだった。誰も目を覚まさない内に過ごす朝の微睡みは、彼にとって欠かす事の出来ない時間である。
 そのまま、大聖堂まで歩いて行く。今日、ウィンディアはいない――普段なら大聖堂の一室で眠りこけるウィンディアを起こしに行くのだが――それでも、この普段通りの行動は止まらない。
「全く、暇な朝だ……ん?」
 しかし、この日はもう一つ事情が違った。大聖堂の前に何者かが立っている。
「おはようございます、エッジさん」
「……朝、早いんだな。アセリア、だったか」
 闇に溶けそうな黒い髪の少女――アセリアが、笑顔でエッジを迎えた。

 
    *


 先刻。
「大司祭様なら、私用で外している」
 帰ってくるまでは五日ほどかかるだろう、と言うと、黒髪の少女は残念そうに俯いた。わざわざこのフォレスティアに、ウィンディアを訪ねて来たという彼女にとっては落胆も仕方ないだろう。
 エッジには一瞬、目の前の少女が消えてしまいそうなほど儚いものであるように感じた。しかし、その感覚に関係無く、少女は再び顔を上げると笑って見せた。若干、苦笑にも見えたが。
「そうですか……仕方ありませんね。会ってみたいと思ったのですが……」
「会う事に意味がある程、高尚な人物じゃあないんだがな」
「そんな事はありません! 素晴らしい人だと聞いています!」
 会った事の無い相手の悪口で顔を膨らませる少女に、今度はエッジが苦笑を浮かべる番だった。ウィンディアにそんな熱心なファンがいるとは思っていなかった。そんなエッジとは対照的に、随分と誇らしげな顔を見せるのは隣の女性。
「ほう、ウィンディアはそれほど言われる人物になったという事か。姉としては誇らしいな!」
 少しだけ年齢の離れている、顔立ちは似ている姉は非常に満足そうな様子だった。
「ラーヴァ……お世辞の可能性もあるぞ」
「いや、ウィンディアは私の自慢の弟である、ゆえにお世辞はあり得ない」
 とんだ暴論だと冷めた笑いを返すエッジ。しかしラーヴァはそれを全く意に介さない様子だった。まるで彼女の周囲だけ光り輝いているかのようにも見えるほど生き生きしている姿は、若干引いてしまいそうなほど。
「そうだエッジ、ウィンディアに連絡を取ればいいんじゃないか? 会いたいという人がいるって――」
「この夜中にか? そもそも、会いたい、って言う奴がいるからといって簡単に便宜を図るのはよくない。仮にもウィンディアは権力者の立場なんだからな」
 ぶつぶつと弟の人生を振り返っている彼女に、これ以上言葉をかけるのは無駄と判断し、前方に向き直る。
「とにかく……あいつに会いたいなら、しばらく待ってもらえないか? 宿なら案内出来る」
「いえ、それには及びません。でも、お気遣いありがとうございます。とりあえず……ウィンディア様がと会えるまで、この街には留まります。
 念のためと思って、宿は既に取ってあるんですよ」
「そうか……差し出がましい事を言ってしまったな」
「いえ、そんな事ありませんよ。優しいんですね」
 深く頭を下げると少女は後ろを向き、聖堂の扉に手を掛けた――という所で不意に振り返り、訪ねて来た。
「あの……よろしければ、お名前、教えてもらってもいいでしょうか?」
 若干申し訳なさそうにも聞こえるが、名前を聞かれて困る物でも無い。
「エッジだ。ついでにこっちはラーヴァ。大司祭様の姉だ」
「誰がついでだ!」
 ぞんざいな扱いに頬を膨らませるラーヴァだが、エッジは意に介さない。
「エッジさんに、ラーヴァさん、ですね。わたしは…………アセリア、と言います。ありがとうございました!」
 長い溜めの後に自らの名前を返した少女は、再び扉に手を掛け開くと、外へと歩いて行った。
「……アセリア、か」
 エッジは小さく溜め息を付くと、また思考に馳せた。
 時間は戻り、未だ日の上らない朝。
「……立ち話も難だ。聖堂の中にでも入るか」
「そうですね……またお邪魔しますね」
「俺の家じゃあないがな。誰にでも開かれているさ、まあこんな時間には誰もいないだろうが……」
 大聖堂の扉を開くとホールに出る。その正面の扉を再び開けば礼拝堂に入る。エッジとアセリアは先刻と変わらず暗闇に包まれた礼拝堂に足を踏み入れる――と同時に、いびきが聞こえてくる。
「くかー……くかー……」
「「……」」
 よく見ると、机の一つに置かれたランプの灯りに、顔立ちは綺麗な女性が、だらしなく涎を垂らしてかついびきを立てているのが映っている。エッジの頭が痛くなる。
「幸せそうですね」
「ああ。殴りたくなるほど幸せそうだな。そうだ、知っているか……? いびきをあんまりかくとよろしくないんだ」
 何となく、知っている知識を披露しつつ足音を立ててラーヴァに近づく……が、まるで起きる気配は無い。
 エッジは、少し困った顔をすると聖堂の扉の一つに手を掛け開く。
「どうかしたんですかー!?」
「いや……少しな」
 張られたアセリアの声にも動じず眠り続けるラーヴァを横目で見つつ、エッジは扉の奥へ歩いて行った。通路を歩くと、その横にある扉の一つに同様に手を掛ける。そこにはこう書いてあった。
『薬剤保管室』
 と。エッジは、大聖堂に相応しくないその部屋に入って行った。

 
    *


 エッジの持ち出してきた青い液体をだらしなく開いた口に流し込まれたラーヴァは、絶叫と共に目覚める事となった。その場所にも、その外見にもあまりに似つかわしくない声だった。
「全く、無駄な手間を掛けさせてくれたな」
「ぐ……」
 最悪の目覚めのラーヴァが歯で音を立てながらエッジを見上げて睨みつける。しかし、エッジはそんなラーヴァを見下し冷ややかな視線を浴びせるのみ。全て自己責任であると言わんばかりに。 
「お、面白い人ですね、お二人とも」
「何が面白い! こいつのやった事は最早暴力の領域だぞ!」
「暴力じゃあない。親切にも朝の空気を味わせてやったというのに、酷い言い草だな?」
「余計なお世話だ! わざわざあんな苦い物を飲まされるぐらいならそんな物はいらん!」
「目覚めスッキリになるようにわざわざ強力な奴を選んでやったというのに……」
「え……えっと……」
 場は和らぐ事無く、睨み合いを続ける二人を前に次第にアセリアはおろおろとし始める。
「ん……ほら、こいつが困ってるじゃないか。ラーヴァ、この教会の誇り高き騎士団の一員がみっともない姿を客人に見せるか?」
「ぐっ!? お前だって……ん!?」
「残念……俺は別に教会関連の役職に付いている訳じゃない。ただ、大司祭様の友人というだけだ。分かったら、落ち着いて深呼吸しろ。場にあった空気を保て」
 相手が自分の行いを誤魔化そうとしているのが明白あっても、人前である以上はどうしようもない。ラーヴァはぶつぶつと文句を言いながらも、言われた通りにする他に無かった。

 二人の小さな争いが終わった事でほっと息をつく。でも、何だか――
「……やっぱり、面白い気がしますよ」
 表情が綻ぶ。
「まあ……そこまで面白いって感じるなら、そういうものかもしれないな。いいボケと組むと面白いか」
「むむむ……ボケはお前の方だろう」
 文句をぶつぶつと言うラーヴァだが、突然気づいたように顔を上げると、声色を変えて喋り始めた。
「……ところで、エッジと……アセリアだったな。一緒に入って来たのか、仲がいい事だな」
「そういう――」
「いえ、ぼーっとしていたらエッジさんと会って、立ち話もなんだから、と……」
「なるほど。なるほど!」
 さっきまでの時間はどこへやら、急にニヤニヤとした表情になったラーヴァを見てエッジは何もしていないのに体が疲れを訴えるような感覚に襲われていた。面倒臭い事になった、そんな単純な一文が頭の中を飛び交う。
「何が、なるほどだ」
「いや、遂にエッジにも春が訪れたかと思うと、長年見守ってきた身としては嬉しくてな」
「見守られていた覚えはそんなに無いな……それに、春が、って――」


 エッジが何かを言い返す声は、途端にガタンッ、という荒々しい音にかき消される。三人が音の方向を振り返ると、息も絶え絶えに一人の男が礼拝堂に入ってくる所だった。
「ラ、ラーヴァ様、こちらにいらしたのですか!」
「……何があった?」
 ラーヴァについ先ほどまでの冷やかし顔は既に見られず、必死の形相の男に掛ける声は落ち着きはらった物だった。エッジも、男の様子に緊張の面持ちで向き合う。二人の態度の変わり様に、アセリアは二人の顔を、そして入ってきた男の顔を交互に見つめる。
「聖天騎士団へ向けての救援要請です!」

 
    *


 同刻――教会本山の街、エルクライス。神聖国家と呼ばれるスノーリウムを有する大陸より、僅かに海を挟んだ別の大陸にある――何処の国にも属さない場所。前日、フィラネスと会った彼は教会の膝元であるこの街に滞在している。二つの大陸を繋ぐ連絡船が、日によっては運行していない。この日は、そんな数少ない日の一つであった。
 本来なら前日の内に出てしまう予定だったが、ウィンディアは少し疲れていたのか眠ってしまっていた。その結果である。

 ウィンディアは、自身に同行させた二人の護衛と宿の一室で語り合っていた。
「天使って、どんな存在なんだろうな。どう思う?」
 まずは一人に質問を投げかける。それを受けた同年代と思しき漆黒の髪の青年は少し考えた末に言葉を発する。
「まあ……ピカピカしてると思います」
「確かに、天使ってピカピカかもな。すっごい眩しくて直視出来ないかもな! プレアじゃ、光で浄化されるかもねえ」
 漆黒の髪の護衛――プレアより比較的年上であろう金髪の護衛も想像に同調する。神聖なる存在――イコール、ピカピカしている……という想像は、短絡的だが、そのような想像に行き着く程度には、天使という存在は神聖化されているのである。
「浄化って……どうしてそう思う?」
「髪が黒いから……浄化されてハゲる」
「ハゲっ……!?」
 ウィンディアはそんな二人のやりとりにくすくすと笑う。しかしふと思いついたように――
「じゃあ、俺はどうかな? 光に当てられるとどうなると思う、スピリス」
 
 プレアとスピリスが顔を見合わせると、若干の沈黙の後に返った答えは……
「酸素が生まれそうですね」
「酸素でも出てきそうですねえ……ああ、プレアも同じ考えか」
「残念だけど、そういう機能は付いてないと思う」
「「えー……」」
 露骨に残念そうな表情を浮かべる二人を見て、ウィンディアは何とも言えない表情をするしかなかった。


 そんな談笑を続けていると、ふと、ジリリリリ……という音が部屋の片隅から鳴り響く。
「あ。朝食食べに行くか。プレア、スピリス、護衛係よろしく。街中だけど」
「はい……でも、ウィンディア様って、俺より強いですよね? 肝心な時に役に立てる自信が無いんですよね」
 俯いて声が小さくなるプレア。対し、スピリスは――
「よーし、張り切ってくぜ!」
 勢いよく外に出て行った。対照的なこの反応に苦笑しつつも、ウィンディアはもう片方に残されたプレアへ優しく語りかける。
「あんまり自分を卑下するなよ。大丈夫、仮にも偉い人の護衛に付けられる奴が役に立たない事は無い」
「でも、本当に役に立てなかったら……」
「大丈夫、プレアは強烈な魔法も扱える事だし……最悪、周囲に被害が出ない程度に焼き払えばいい。俺の信念は、他者に強制なんてしないし、な」

 言葉をかけ終わるとウィンディアは先に部屋を出て行こうとした――が、プレアがはっきりとした声を出した。
「天使をあくまで概念として捉えるなら、貴方のような人の事も天使と呼んでいいのかもしれません」
 ウィンディアはまたも苦笑する事となった。恐れ多いよ……と返すと、今度こそ部屋から出て行った。あまり遅れないように、プレアも急いで荷物を手に取ると、それを追いかけた。


 フォレスティアと違い、エルクライスの眩しい朝日にウィンディアとスピリスは目を眩ませる。一方、プレアは清々しく空を仰いだ。
「目、目が見えない……!」
 唸るスピリスを後目に、プレアはふと一つの事に気付き、前を見ると横を向き、後ろを向き、辺りを見渡した。ウィンディアも、日の光を腕で遮りつつも、同様の事に気づいたらしく周りを確認し、そして一点を視界に捉えるとそれをじっと見つめていた。
「ん……? どうしたんですか? 何か……」
 言いかけて、スピリスも妙なざわつきに気付く。早朝にしては、やけに騒がしい……一箇所が。喧騒へと歩いていくと、三人は広場に行き着いた。
「何かあったんですか?」
「それが……ウェストブロシアが酷い有様らしくて……たった今入ってきたばかりのニュースだ」


 広場に設置された魔導モニター――世界に存在する「属性因子」の一つ、雷のエレメントが情報を含有出来るという数年前の発見により作られた最新技術――に、一つの映像が映し出されている。そこに広がっていたのは、無残に破壊された建物や、無造作に転がる死体。広場に集まった人々は、声も出ないような状況であった。そんな中、一つだけ声が聞こえた。
「おい、あそこに立ってるのは!」
 一人の男がモニターの一点を指差す。そこには、旗が立っていた。黒い羽……そして赤い瞳のような模様が描かれている。
「ルシファーズウイング……」

 この世界は、一つの歪みを抱えていた。


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