「ルシファー、という存在を知っているか?」
 エッジが不意にアセリアに聞いた事。それは、今ある敵の名の元となった存在。
「ルシファー……よくない存在なんですか?」
「さあな。ただ、少し名のある物語に出てくる者の名で、そいつも反乱を起こしたんだとか……おそらく、奴等はそれにあやかって名を付けたんだろうな」
 この世界に存在する数多の本。その中には様々な物語を描いたものがあった。甘く切ない恋の話、心躍る冒険譚、あるいはただの子どもの落書きまで。様々な物がこの世に溢れていた。しかし、その中には誰が創りだしたのか分からない物も存在した。
「物語、ですか」
「ああ。出元不明の話なんだがな……聞いた事も無い物の名前がよく出てきていたのを覚えている。中には、その物語に出てきた物を再現して、今や生活の中に入り込んだものまであるらしい……異世界の物語なのかもな」
「異世界……」
「夢、溢れてるだろう?」
 話しながら荷物の中を漁り始めるエッジに、アセリアは話も併せて興味津々なようだった。
「何してるんですか?」
「いやな……ほら、これ」
 彼が取り出したのは二冊の本だった。一冊は黒い表紙に金色の縁取りをされた重厚な雰囲気の本……もう一冊はパステルカラーのハートが表紙に描かれた本だった。彼は、本を差し出す。アセリアはきょとんとしていた。
「あまりこういうの、読んだこと無いようだからな……暇だろう? 時間ぐらいすぐ潰れるぞ」
「いいんですか?」
「俺は三十回ぐらい読んだよ。もう暗唱できる……俺は、これから朝の空気でも吸いに行こうと思う」
 背を向けると、扉に手を掛けた。一睡もしていない事に自分で苦笑しながら、部屋を出ようとして――
「そういえば……お前が言っていた用事って、もうウィンディアに話したのか?」
「いいえ……この状況でお願いなんてとても……」
「そうか。まあ、早く抜けたい所だな、こういうのは」
 扉の閉まる音と共に、部屋の中から音は消えた。外ならば、鳥のさえずりも聞こえるのだが。そんな中で、アセリアはエッジから渡された二冊の本を見つめていた。そして、目を離せなくなるのはすぐの事だった。

 
    *


「ちょっと散歩してくるよ」
「護衛的な人は……」
「一人で大丈夫だって、そんな子どもじゃないから」
 ウィンディアがふらりと散歩に行った。それから数十分後には、
「少し散歩してくる」
「ウィンディアも散歩に出たけど……」
「そうなのか? 全く、ふらふらしているな」
 エッジがふらりと散歩に行った。今の所、教会の方が調査を行っているだけであり彼らは暇を持て余している。プレアも暇だったが、彼はあまり散歩をするタイプではない。
「……どの口で言ってるんだろうなあ」

 そう言われている事は知らず、エッジはまだ静かな街を歩き出した。半月前は朝でももう少し活気があったのだが、どうやら事件のせいでその活気はやや減退気味のようだ。とはいえ、それも少しの間だと思っている。
「早く収束させないとな」
 そうして街を歩いて十分ぐらい経っただろうか。ふと、エッジは空気の流れを感じた。僅かに……だが、何かが揺らいだような、そんな感覚だった。
(何だ……?)
 それを感じる方向に彼は足を進めていく。街中である以上、危険のレベルはせいぜい単発の犯罪者程度……別段恐れを抱く事も無く、単なる興味でそれを辿る。

 そして、気付けば街の路地裏を歩いていた。あまり広くはないが、狭すぎる訳でも無い。幾つかの店が見える。名店はあるかな……などとこちらも興味をそそるが、今は最初の関心事の方が大事だった。
 その時――目の前から影が飛び出した。
「うっ!?」
「痛っ!?」
 非常に聞き覚えのある声が響いた。その方向を見るといたのはやっぱりウィンディアだった。
「あっ……ご、ごめんエッジ!」
「気を付けろ。こういう所は特にな……で、何をそんなに急いでいたんだ?」
「え、いや……何か変な感じがして」
「なるほど、お前もか。見に行く途中か?」
「そうそう、気になって」
 そうやって、二人がその方向へ歩いていくと――

「この匂いは……」
 エッジの中で嫌な予感が膨らみ始める。何かがおかしい。このような場所でこんな匂いがするのはまずいのではないか?
「エッジ……これって」
「ああ。血の匂いだな」
 足は止めない。この先で何か事件が起きている……殺人鬼でも現れたか。修羅場の行く末か。分からないが――そこまで彼が考えた時、彼の目の前で何かが弾けた。

 
    *


 アクアがそれを聞いた時、真っ先にあの日の出来事が頭に反射した。彼女は急ぎ宿を飛び出し、その方向に走り出した。ふと目の前を見ると、同様に急ぎ走る黒い髪。
「プレア」
「あ! アクアさ――アクア!」
「戦える?」
「ウィンディアほどじゃないけどまあ……鋼を溶かすくらいなら!」
 街が騒がしくなってくる。悲鳴が上がる――だが目の前に何かが現れた訳では無い。恐怖、それが重く圧し掛かっている。遂にこの街にも魔手が伸びたのだと。音の方向から逃げてくる人々の間をすり抜けながら、止まることなく駆け抜ける。
 喧騒を突破した先に煙を見る。再度爆音が響き、赤、緑、黄色と言った様々な色の光が立ち上り、反射し合い、小さく、金属の擦れる音が鳴る。
 教会の手は遅く、敵の手は早かった。それだけの事か。だが、よく考えればこの予兆はあった。むしろ、警戒しなかった方がおかしい。街が恐怖に麻痺したように、おそらくウィンディアやエッジ、今横にいるプレアは「恐怖を感じない」事に麻痺していたのかもしれない。

「プレア……貴方達、襲われたのよね」
「まあ……寄せ集めのようなのだったけど――」
「もう少し警戒しなさい……! そしてウィンディアとエッジにも同じ事を言わせてもらうわ……」
「え、あ、ごめんなさい!?」
 とはいえ、その雰囲気にのまれていた私も私だけれど――アクアはそっと心の中で呟いた。そして、反省するより先にやるべき事があるのも確かだった。角を何度も曲がり、いつからか前の二人の辿った道に合流し、その光景を捉える。

 
    *


 敵の数を見ればどれほどだろうか。とにかく、尋常な数では無い事だけは判断した。破壊された街の外壁の先には小魚の群れにも匹敵しかねない程の数の武装した者達。
「四桁行くな……何故誰も気づかなかったんだ、管理体制を見直すべきだな」
 ただの散歩に剣など持ち合わせていない。これからどれだけ疲れる事になるか想像もつかず、思わず舌打ちしてしまう。
「とりあえず、武器も無しか……不安だな」
 少し背後を見ると、先程飛んできた何らかの魔法で抉れた壁が見える。当たるのはお断りだ。
 その時、ふと横で光が溢れだした。それを見ると、何かの模様がウィンディアの立ち位置を中心に展開されている――それが高位の魔法陣である事はエッジには容易に理解できる事だった。
「ああ、やるのか」
「仕方ないだろ……やりたくないけど」
 途端、暴風が巻き起こった。叩きつけるかのような荒れ狂う奔流が推定――ルシファーズウイングの面々の入り込もうとする穴に流れ込む。それは、人を吹き飛ばすには強過ぎるほどだった。
 人が空を舞った――そう言えばいいのだろう。地面への衝突の音が続く――金属の音――ガシャンガシャンと心地よくない音だ。いや、ある意味では心地いいのかもしれない。
「サイクロンか? 戦いの序盤にしては強過ぎるだろ」
「最初に見せておけば帰ってくれるかもしれないだろ?」
 そう都合よくは行かないだろう……そう思い、事実、風の音が止むとまた怒声が響き雪崩れ込もうとしてくる。倒れた仲間も放って、ただ目の前へ。その目を見たエッジは、普通ならば震えあがるであろうそれを感じた。
「もはや狂気だな」
 そう言うと、今度は彼が魔法陣を展開した。赤い模様が広がっていく。揺らめくような模様が……
 先程の物を見たからか、今突っ込んでくる者達は立ち止まり、二人の出方を伺いだした。それだけの冷静さは持っているらしい。もっとも、見ていたウィンディアは……そして今その光景を捉えたプレアとアクアは、敵がそのまま来る事を恐れたが。
 エッジの狙いにうまく嵌っていた。
「灰燼と化せ、『エクスプロージョン』」
 ほんの少し前に起こった爆音と比べても遜色は無かった。思わずその発動の瞬間に他の三人は耳を塞いでいた。視界が紅く染まり、熱風が身を焦がすような気がした。その中にいる者達がどうなるか……想像したくはないだろう。
「バカ、エッジ……それはやりすぎだ……!」
「こいつらは死ぬまで向かって来るさ……だったら、お前がやらなくていいように俺がやってやる」
「……その心遣いは有難いけれど」
 あの目を見ればそれは間違いなかった。船の上で襲われた時はアセリアが縛ってくれたが、この数では仮にここにいてもそうはならないだろう。それに、縛る事が出来たのはあまりに敵が弱かったため……戦意を削がれるような者ばかりだったため。今回は違うような気がしていた。
「それに、火の魔法は当たれば致命傷になりがちだ。弱火でじっくりやるよりは、一発で灰にした方がまだ有情だろう」
 やりたくない事と、出来ない事は違った。そして、エッジはそういった理想と現実は分けて考えた。今は理想を追求できる時では無さそうだ、と。
 それに、これは今、自分の役割だとも思ったから。

 背後からの足音にウィンディアが気を向けると、二人の存在に気付く。
「アクア、プレア!」
「ウィンディア……これは!?」
「多分ルシファーズウイング!」
「やっぱり……思い出したくない物を刺激されると思ったのよ」
 アクアは冷ややかな眼差しで、紅の消えた、壁の向こうを見ていた。
「報いね」
 その言葉はあまりにも冷たく、容赦の無い物だった。そして彼女もまた、前の二人に続き魔法陣の展開を始める。
「えっと、ウィンディア……今のアクアって冷静?」
「多分まだ冷静だと思う……アクア、やりすぎは――」
「ごめんなさい、ウィンディア。こいつら相手に容赦は出来ない」
 青い模様が広がりきる――かと思われた時、光の中に闇が煌めいた――気がした。

 青い模様が消える――アクアは叫んだ。
「避けて!!」
 四人は、初めて明確に回避を余儀なくされた。目の前から迫りくる――黒い……闇を塗り固めたような矢。当たってはいけない事ぐらい、誰でも分かった。

「ちっ……厄介なのがいるようだな!?」
 目の前に死が迫る感覚――とでも言えばいいのだろうか? エッジは、それを闇に見た。

 
    *


 本に夢中になっていたアセリアだが、二度もの爆音は彼女をパステルカラーの世界から現実に戻すには十分だった。同時に、嫌な感覚が身を包んでいるような錯覚を覚える。
「……これは――何?」
 何が起きているのか。外を見ると、音の方向から逃げ惑う人々と、様々な色の光が遥か向こうに見える。その時、ふと――彼らの事が気になった。いや……この半月で、彼らについて少しだが、分かった。
「行かないと……」
 大切な本を置くと、アセリアは、前の二人と同様に駆け出した。

 あるいは――これが彼らにとっての本当の始まりだったのかもしれない。この瞬間、運命が五人を捉えたのだ。

inserted by FC2 system