空を見上げる――流れる雲、眩く輝く月、いつも私達を見守ってくれる。そう、誰かは言った。でも、そんな綺麗事ですらない言葉が、何の役に立つのだろう? 私は――そう考えずにはいられない。
 そうやって恨み言の一つでも考えていれば、恐怖も和らぐだろうと思ったけれど――結局、下を見ればどんな考えも虚空へと消えていく。私は、生と死の狭間で動けないでいた――

(どうすればいいのかな……)
 誰もこんな問いかけには答えてくれない――誰も私を見てくれない。誰も聞いてくれない。聞けるはずも無い。気づきもしない、私一人いなくても。楽しそうな声がどこからか聞こえてきる。ああ、私もあんな声を出せたらいいのに。

(もう、これで終わりにしよう)
 怖い、なんて思いが消えるはずはない、けれど……ずっと苦しむよりは。そして、私は一歩を踏み出そうとした――その時だった。

『大丈夫だよ』
 ……何か、声が聞こえた気がする。
『わたしがいる』
 気がする、という話じゃない――確かに聞こえる。いや、それは頭の中に響き渡っている――!
 突然聞こえてきた、誰かの声――幻聴か何かかと思った、けれど顔を上げると彼女はいた。思わず息をのむ――そして目をごしごしとこするとまた目の前を見る。
 空中に立っている。いや――飛んでる。背中に羽が付いてる――天使のような笑顔を見せる彼女は、その通り――紛れも無く天使だった。


 きっかけは些細な事だった――
「欲しい物ってある? 誕生日プレゼント買ってあげる」
 私の母はそれを買って来てくれると言った――私は勉強には比較的真面目に取り組んでいたし、親の手伝いもそれなりにこなしていた。だから母は私の誕生日にはプレゼントをくれた――でも、普段は頼んでまで欲しい物が無かったから、大好きなオムライスを外食して食べに行くとか、そういった事が主だった。
 ただ、その年は私は風邪を引いていたから、あまり外に出たくは無かった。それに……欲しい物があった。だから、それを伝えた。母も父も笑顔で応えてくれた。母と父が出かけて行ったのを見て私は眠りについた――

 目が覚めて暗闇の中――真っ暗な部屋の電気を付けて、ドアを開けて、でもそこも真っ暗で。寝起きで頭が回っていなかった私は、それが異常な状況だと言う事が分からなかった。眠った頃にはまだ、日が真上に昇る前だったというのに――
 それを認識したのは時計を見てから数分経ってからだった。夢では無い中、その異常性を実感する――でも、私に出来る事は無かった。ただ、想像しうる限り現れる不安を拒絶するかのように、眠る――それだけしか。

 翌朝起きた時も、母と父の姿は無かった。心のどこかでは分かっていた――のかもしれない。その内、電話が鳴って――その先の言葉を聞いて――私は泣いた。
(あんな事言わなきゃよかった――!)
 これまで言わなかった願い事。こんなにも理不尽な事、私のせいじゃない事は分かっていた――不運な事故。たった一言で表されるそれは、間違いなく私の意思でどうこうなる事じゃない。でも、私の考えは浅いから。それが自分のせいだって責め続けた。ショックと怒りと。他にも何かがあったかもしれない。
 何も言わなければよかった――そんな思いは私の声を奪った。

 親を失った私を叔母が引き取ってくれた。叔母は私の事をかわいがってくれた――まるで母と同じように。声は出せなくなってしまったけれど、その頃の私は……迂闊に声を出せたら、ふとした事でこの場が無くなってしまうかもしれない、なんていう考えを抱いていた。そんな単純な事じゃない、でも私は未だその考えから抜け出せていない。


 声も出せないまま私は生き続けて――でも、声が出ない事そのものは最初は苦にしていなかった。あの日から、私は自己主張をやめた。欲しい物も無くなったし、やりたい事も捨ててしまった。ただ、何も無くなった。自分のせいで起こる何かを恐れ続けて。
 家ではその不自由さ、それと寂しさを感じる事は少なかった。時々叔母に遊んでもらった――叔母は私の事を分かっていたから、彼女の方から呼びかけてくれた。
 でも他の場では、そんな気遣いはあるはずがない。やはり私は恐れ――そして、自らを出す事をしない。自身は何もしない。誰かから頼まれない限りは何もしない――そうすれば私の責任なんて無い。連帯責任――そんな言葉は分からない人々の作り出した逃げ道に過ぎない。そう考えれば、私の責任はどこにも無い。自らの責任を無くすという一点においては、それは私の「やりたい事」だったのかもしれない。

 でも、自らがそう考えたからといって現実がその通りであるはずもなく、周囲の人々は同情こそしてくれても、私の本当の責任を見逃してはくれなかった。それに――

「何か言ったらどうなんだ?」
 何を言われても無言で返す他に無い。
「君がやったって、多くの人からの証言があるんだ」
 涙が溢れ出る。違う――でもそれすら言う事が出来ない。
「泣けば許されると思っているのか!?」
 打たれて倒れ込んで――誰も私を起こしたり……声を掛けてすらくれない。声の出ない私は、普段から主体性を持たなかった私には友人の一人もいなかった。ただ、事情を何も知らない人々は聞こえるように陰口を言って来る。
「あの子、きっとこれまでもやってたんじゃない?」
「うんうん、何でも許されるって思ってたのかもね。最低」
 違う、違う――私はやっていない! でも、それが声にならない。唯一の味方は、親亡き後に私を育ててくれた叔母のみ。しかし、数の力の前に叔母もその標的となり、正義ぶったような人との言い争いの末に……また、不幸な事故が起きた。まさか――そう思う。でも、不運にもそれが相手の命を奪う結果となった。
 私はあるはずの無い罪に縛られ、警察に突き出される。証言以外にロクな証拠は無い。しかし、運が悪かったのか……警察はそれを全面的に信じ込み……いや、本当は信じてはいなかったのかもしれない。ただ、面倒だった可能性もある。その上、その保護者まで犯罪者と言われれば……そうして、私は裁かれる事となってしまった。

 不幸中の最大の幸い――軽犯罪であった故に執行猶予が付いた。でも、もう何も残っていない。帰るべき家すら失った。もう私の味方は誰もいない。もう、疲れた――そして、ただ闇雲に、何も考えず歩き続けた。夜も遅くなり――月の光が辺りを照らす。視界のほとんどが暗闇に包まれる中、更に歩き続けたその場所……気づけば私はこの場所に立っていた。人生の幕を下ろす事の出来る場所に。


 間違いなく今は終わりの時。でも、そんな時間に、目の前に現れたそれは私の知る限りの事を超えていた――
『大丈夫。わたしは君を傷つけたりしないから』
 汚れ無き白き羽、月以上に眩い光の輪。それらを併せ持つそれはまさしく――天使。そう、幼い頃に絵本で見たような。
『苦しかったね……辛かったね……もう、終わりにしたいよね』
 彼女の笑顔が曇る。目を伏せ、呟くように語りかけてくる――いや、声は頭の中に響き続けている。ただ、少なくともその声は今、か細く聞こえてきた。何故だか、その事が酷く心苦しく、悲しい。溢れ尽くして、枯れ果てたかのような涙がまた流れ始めた。何故だろう。その声は、心を包み込むようで。外に出す事の出来なかった感情をそれが感じてくれているような気がした。

『これ以上、君が苦しまないように』
 手を差し出した――救いを求めるように。天使という概念は宗教の中に組み込まれているものである――そんな知識はあった。そして私は何かを特別に信仰している訳でもない……それなのに目の前に現れた彼女は、私の手を。
『わたしは、君を――』
 ふらり、と前に……私は一歩踏み出した。そう、前に。だけどそこは……空。そして私は落ちていく――そう、さっき考えたように。
『大丈夫――この手は、離さないから』
 そして、風を切るかのような音が少しずつ薄れていき、何秒経っただろうか……いや、数十秒も経つはずはないけれど。私はいつしか、意識を手放していた。


 再び目を開いた時――それはまるで、あの夜のような暗闇の中……のはずだった。月が雲に隠れて、辺りは暗い――なのに、何かがわたしの視界を照らしている。ふと、手に何かが触れている――その感覚の先を辿ると、また別の誰かの手が繋がっていた。更にその先を見れば――
『目が、覚めたみたいだね』
 声がまた響いた――そう、私はさっき落ちて行った――その前に聞いた声。でも、私は落ちて行った――「その前」までしか私には無いはず。なのに、なぜ「今」があるのだろう。
 彼女はまた、最初に見た笑顔を見せてくれた。それを見ると、今抱いていた疑問もどうでもよくなりそうなほどに……何故か幸せな気分が心に生まれてくる。とりあえず、それを表現してみようと……笑顔、を作ってみる。しばらくそんな事を考えた事は無かった――だからどことなくぎこちない物になってしまったかもしれない。でも、私を見ていた彼女の笑顔は、より嬉しそうなものに変わっていった。それを見て、私の顔のそれもより自然に変わっていく――ような気がした。
『よかった』
 手を繋いだまま、私は立ち上がった――彼女が立ち上がらせてくれた。何となく、ふわふわとした感覚。気持ちいいような感覚。そうして、はっきりと彼女を見る。しばらく見つめ合ってみる――
『ねえ、君の調子はどう?』
 突然聞かれて戸惑うけれど、私の調子は――本当にいい感じだと、そう答えるしかない。もし私が話すことが出来るなら、だが。

『いい感じだよ』
 ……あれ?
『本当? よかった!』
 彼女はまた喜んでくれている――今、声が出たような。いや、本当に声を出したわけじゃないはずなのに、声が出たような気がする。それに、彼女は確かに私の言おうとした事に合った反応を返してくれた。それはもしかしてやっぱり――声が出たのだろうか?
『私……喋ってる?』
『うん、聞こえるよ。君の声。確かに、聞こえてるよ』

 長く、自己主張も必要無くしていた。しかし、それは身の破滅を呼んだ――必要な状況になって、初めてそれが大切である事が分かった。それを今、私は持っている?
『どうして……』
 そこまで言って、初めて自らの体を確かめた。何も変わりない――何も? いや、体が軽い……あらゆる重りが今まで付いていて、それが全て取り除かれたみたいに。でも、その代わりに……何か別の物が付いているような。そんな気がした。
『さあ、行こう』
『え?』
 彼女はその羽を広げる――そして未だ手を繋いだまま、彼女は飛び上がった!
『行くよ!』
「ちょ、ちょっと……!?』
 私も彼女に連れられるがままに足が地から離れる――私にも羽があったらこのように飛べるだろうか? そんな事を考えると、私の何かが動いた。背中が動いたような――いや、背中が動くって何を考えているのだろう? そんな物は動かない――混乱しながら肩の後ろを見るように首を捻ると、信じられないものが瞳に映った――!
『何これ――羽!?』
『飛んで行こう――苦しみもついてこれないぐらい!』
 彼女はやはり笑顔を崩さず、私に呼びかける。何が起きているのか分からない――でも、私の背中に羽がある! 体が軽いのも――もしかしたら、そういう事?

 そして――私達は飛んだ。雲を突き抜けて、澄み切った、汚れ無き夜空を。羽は月の光を受けて輝き、私達の行く先を照らし続けた。……私の心も、この空と同じ。


 不安、恐怖、怒り、そんな感情を忘れてしまったかのように……私は、彼女と一緒に飛び続けた。とはいえ、ある程度時間が経つと少し落ち着いて考える余裕が出て来て――そして思った。
『私は今、どうなっているんだろう』
『君は今、わたしと同じ』
 彼女は応える――同じ。そうか――きっと私は今、彼女と同じ――天使。
『そう――君は命を捨てた、いや、捨てるしかなかった。でも、わたしは君に死んでほしくなかった』
『どうして? 私はあなたの事を何も知らないのに』
『天使って、そういうものだから』
 そういうもの……なのだろうか。分からないけれど、彼女はとにかく私を心配してくれていたらしい。私は生きる術が残っていなかった――彼女はそんな私を変えた。どういう仕組みかは分からない――いや、分からなくてもいい。彼女は、私を助けてくれた。その事実さえあるのなら。

『……でも、私はこれからどうすればいいんだろう』
 しばらく忘れていた不安がまた顔を出す。どちらにしても――人としてはもう終わっている。これからは?
『伝えられなかった事を伝えたい相手って、いる?』
『……伝えられなかった事』
 今更、濡れ衣を晴らそうとする気は起きない。ただ、思い当たる相手はいる――
『私の、叔母』
『そう。じゃあ、会いに行こうよ』
『……でも』
 ふと思い出す――あの日の事。自分のお願いを遠因に両親が死んだ過去。私が悪いわけじゃない、客観的に見てもそうであろう事は分かる――もう何年も経ったから。でも、やっぱり……それが頭から離れない。怖い――その不安が伝わってしまったのだろうか。彼女は悲しそうな顔をする――私も、悲しい、気がする。
『怖くて、怖くて――逃げたいよ』
『……確かに、一つの行動が取り返しのつかない事につながる可能性もある。けど』
 彼女と私の目が真っ直ぐに繋がれる――その上で、彼女は先程から繋いでいた手と――違う、もう片方の手も握ってきた。その目から、自分の目は――逸らせない。
『私が初対面の君にこんな事をして――君は私の事、どう思った?』
 それは――それは、
『……嬉しかった』
『……そう。そう思えるなら、大丈夫だよ。それに、君がその人に伝えようとしている事は、悪い事でも無いんだから』
 ……喜び。そういった気持ちを感じさせることも出来る。そう――なのかもしれない。
『でも……どうやって、言葉にすればいいんだろう』
 それでも、かけられた言葉だけで全ての不安が拭える訳じゃ無い。どんな言葉を伝えればいいのだろう。自分から話した経験は遠い過去の中。どうすれば……
『精一杯の気持ちを込めれば、伝えられるよ。きっと……でも』
 彼女は、優しく語りかけてくる――それは、しっかりと心に伝わってくる。
『きっと、声が無かったとしても、君はその人に伝えられるはずだから……だから、恐れずに伝えてみて。大丈夫だよ』


 いくらその気が無くても、犯罪は犯罪……叔母は捕まっている。私は――何故だか、壁もすり抜けて叔母の元に行く事が出来た。天使は物質的な物じゃないから、なんて言われたけれどそういう事はよく分からない――ただ、叔母は驚いていた。当たり前の事だけれど。突然現れて――それも羽が付いてたり、輪が付いてたりしたら驚くに決まってる。
 私は――考えていた。どうすれば一番気持ちを伝えられるか。そして、最後に選んだ言葉は――
『ありがとう』
 叔母は泣いていた――そして、同じ言葉を返してくれた。たくさん話をして――そして、叔母は言った。貴女を救ってくれた人と同じように、誰かを助けてみて、と。もしかしたら、それで何かまた変わるかもしれない、って。だったら、今の叔母を……とも思ったけれど、叔母は大丈夫だと言った。強がりではなく、確かな意思なんだと――何故だか感じた。だから、無理に何かするより……送り出してくれる、叔母の気持ちを大切にしようと思った。

 そして私は……また彼女と飛んでいる。全く同じ展開は無いにしても――今、誰か苦しんでいる人がいる。その人を助けてあげたい、何ていう気持ちが今、私の中にある――叔母が言った事でそれが表面化したのかもしれないけれど、その根源はどこから湧いてきたのだろう。
『天使ってそういうものだから――って、言えばいいよ』
『便利だね、それ』
 それが成された時私はどう思うのだろう。

 気付けば、周囲が明るくなっている――光輪のそれじゃない。
『あ……太陽だ』
 夜が明けた――私が変わって初めての夜明け。その光と共に、私達は飛んでいく――助けたい、その人の元へと飛んでいく。私の今の気持ちをその人にも伝えたい。伝えられる――今の私なら。もし、声が無かったとしても。

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