「The evangelize」



「ラモート卿、このような仕事は我々に任せてくだされば――」
「構わん、私が望んで来ただけだ」
 いつの日だろうと、貧しい人は貧しくて、豊かな人は豊かで……それは当然の事で、しかし許せない。それ故に、彼はそのような場所に来た。
 まるで廃墟のような……しかし、事実は街である、そして地獄のような場所へと。


 教会の枢機卿であるラモートは、同じ位に立つ者の誰もが愚か者だと言った。それほどに、権力はこの時、イコール腐敗の象徴と化しかねない存在だった。それ故に、上から見た彼はあまりに愚かで――そして、下から見た彼は……

「自分も同行したい、と……」
 自らの上司の言葉に難しい顔をするしかない一人の男。よく知る事も無い上司の言葉に、どのような返事をしろと言うのだろうか。
 それは、貴族にも近い人物に回すには不確定要素が、そして危険が多すぎる事。だからと言って、正面から反対する事も出来ない。だが、ラモートと言う人物はそれを嫌っていた――
「無駄な事だと思いますけれど?」
「もしかしたら、という可能性もある。それに、人任せは私の性ではない」
「そうですか……ありがとうございます」
 礼を言われた本人にはその意味が分からない。首を傾げるしかない。
「何故、君が礼を言う……」


 砕けた地面とひび割れた無数の建物、干上がった川……その光景は、対極からは到底信じられないであろう物だった。慣れない者には耐えきれない、地獄にとっての普通。
何より……当たり前のように道端に転がる死体。まだ日の経っていないであろうものから、形も分からないほどになっている者まで。
「誰も死体を片づけたりはしないのですか?」
「片づけたってどうせ半月も経てば元通りさ。これでも、ひと月前には片づけたんだ」
 人に聞けば、返る答えも道なりに。

「どうしてこの街はこんな事に?」
 善意でこの街に来た人々も、あまりの光景に驚きを隠せないようだった。彼らは悲惨な光景を想像してきた……現実はそれ以上に酷い物だった。
「元々治安の悪い街だったと記録には残っている。それに加え……首都から離れ、国境に近いがゆえに問題だらけだ」
「戦争、災害、この街には支援物資も届かなかったと。時間さえかければ届けられるでしょうに」
 色々な言葉を聞いて、ラモートは首を横に振るしかなかった。
「国はこの街を捨てた。この街には目立った産業も無かった、どうでもいいと判断したのだろう。国に存在する数多の人命も、権力者一人の損得次第だ」
 狂っている……国も――そしてもう一つ付け足したかったが、彼は堪えた。

「何様のつもりだ!」
「ですから――神は誰もを平等に――」
「何が平等だ、この偽善者ども! 失せろ、ぶっ殺すぞ!」
 路上で座り込んでいる男にパンを渡そうとするそれはまさしく偽善か。彼等から見れば偽りなどではない、しかし相手にとっては怒り、憎しみ、様々な感情を呼び起こす物。
そう、こうなる事ぐらい……ラモートは分かっていた。得てして、慈善活動などという物は結局は裕福な、余裕のある者達のエゴ――そう受け止められても仕方ない。ただ、苦しんでいる人を助ける事は正しい。だが――それを受け入れられないほど、この街は捨て去られ続け、苦しめ続けられていた。もはや、人を信じられない。一切の余裕が無い。他者は全て――敵でしかない。強い痛みに声を上げる事は無い、それよりもまた別の相手を探すのみ。それでも、分かっていた。最後に至る場所が何処か。
 何回か繰り返した。そして結局、ラモートが出した答えは、「意味が無い」、これに尽きた。間違いなく裕福に育ったであろう自分達には、どうにも出来ない事だ。もし救える者がいるならば……いない。せめて僅かな希望を抱きたかったものの、終わりには自らの予言した運命の地に立つのみ。
「神は本当に苦しむ人を救ってはくれないのだろうか。神も、金を払う者にしか用は無いのか……?」
 理不尽な世の中に異議を唱えても、誰も聞かないだろう。その場にいるのは、権力者ばかりだろうから。現実を変える事は、運が向かない限りは不可能。


「……ください」
 その中でかけられた声に、一度は気付く事が出来なかった。
「何か、ください」
「……ん?」
 足元に感じた重みに初めて気づく。痩せこけた子どもにしがみ付かれている……
「ください」
「……パン、欲しいか」
「ください」

 すっかり固くなったパンだったが、目の前の子どもはそれを受け取ると一心不乱に食べ始めた。生きるために必死……はっきりとした生きる意志を見せている。
「女の子か……何歳ぐらいだ?」
「……」
「……いや、いい。まだ残っている。食べるか」
「ください」
 二つ。三つ。四つ、で終わった。これだけでも、来た価値はあった……ラモートは、僅かながらに、だが……晴れやかな気持ちだった。
「偽善でも、構わんな」
 立ち上がり、そのまま立ち去ろうとする。パンの入った袋は置いていく事にした。
「隠しておかんと、奪われるぞ」
 誰か一人に集中させるのはよくないと思う……が、助けを求めたのはこの幼い少女のみ。それなら構わないだろう……そう考え、立ち去り――

「……」
「……」
「……」
 少女が付いてくる。小鳥のように。自分が立ち止ると、少女も立ち止まる。また歩き出せば、また歩き出す。 
(右、左、左、後ろ)
 動きにフェイントをかけてみる。戸惑う。でも付いてくる。
(幼い子は、こういうものだな)
 その微笑ましさに、少し顔が綻ぶ。とはいえ、付いてこられてもどうすればいいのか分からない……ため、彼はそのまま戻る事にした、のだが。
「ラモート卿が幼い少女を連れてきましたが……」
「ラ、ラモート卿? まさかそれが目的では――」
 根も葉もない誤った考えなどは気にしない。ただ、どうすればいいかだけを考える。そうしていると、彼の部下の一人がラモートに話しかけてくる。
「ラモート卿、少しいいですか」
「ん? ああ、セレニア君か」
 セレニアは、ラモートから見て最も熱心な信者である。まだ若く、ラモートとは年が離れているものの、飲みに行く仲である。なお、飲みに行くと言っても酒ではない。紅茶である。第一、聖職者に酒などあり得ない。少なくとも、熱心な彼らにとっては。
「その子は? もしかして、孤児ですか」
「おそらく――」
「うん」
 予想を言うより早く、当人が事実を告げる。やはりか、と溜息をつくしかない。予想とはいえ、ほとんど分かり切っていた事ではあった。場所も場所……おそらく、珍しくは無いだろう。まだ、自身が生きているだけ幸いなのかもしれない。いや……その考えも間違っているだろうか?
「幼い子一人でここまで生きてきたなら……きっと、生きていく定めだろう」
 神が、そう言っているのかもしれない……聖職者ゆえに、その考えに行きついた。そのように心中で考えているとき、横から声がかかる。
「なら、ラモート卿が連れて帰ればいいのではないでしょうか?」
「ん?」
 連れて帰る――そんな考えは無かった。考え付いてもよさそうなものだが……しかし、言われてみればそれも確か。
「身寄りも無いならば、それも悪くないな」
「でしょう? ラモート卿の懐の広さを神に見せる時です!」
「神はいつも我々を見ていらっしゃる……それ以前に、お前が引き取るという選択肢は無かったのか?」
 話題を振った相手に、返してみる。そして戻って来た言葉は――
「子どもを養える余裕が無いです、自分、先週は毎日昼食抜きでしたから」
「……お前も引き取ってやろうか? 勤めはしっかりしているしな」

 意図していたにせよ……名ばかりの慈善活動が終わる。結論から言ってしまえば、酷いものだった。最終的には負傷者すら出る有様であった。死者まで出なかったのが幸いだったが、これ以上は危険だと打ち切られたのだった。
「信じたくはなかったが……我々はあまりにも無力だな」
「そう気を落とさないでくださいよ、ラモート卿、一人だけでも十分ですよ。言いたくないですが、無意味に終わるかと思いましたから」
 セレニアは機嫌良さそうに声を出す。彼の想定は「最低」であったゆえ、今の状況は非常に喜ばしい物なのだろう。無論、ラモートも想定は同様だった――しかし彼は、「次善」を良しとは出来ない癖があった。
(自分でも、分かってはいるのだが、な……やはり、セレニア君のようには喜べんな)
 ふと、彼の後ろから小さな声が聞こえた。
「うぅん……」
「ラモート卿、後ろの子を見てくださいよ。そんな固い顔をせずに」
「ん?」
 痩せこけてはいるが、ぐっすりと眠っているその顔を見ると、不思議と――
「……まあ、意味があった事は確か、か」
「そうですよ。まずは目の前の相手を助けた事を噛み締めましょう! 貴方は色々と引き摺りがちですから、そうしないとやっていけませんよ?」
「随分と言いたい放題言ってくれるな……」
 しかし、その表情は柔らかいものだった。


あれから数年が経過した。何も知らない少女を待っていたのは、これまでとは逆の不自由と自由だった。
 「常識」という名の不自由と、そして――
「今日は、何をやっているんだ?」
「絵を、描いてるの」
「ほう……それは、怪物か?」
「ラモートさん」
 生きるために必死で何も出来なかった頃と違い、今では気の行くまま、やりたい事が出来る事もある。それだけでも、彼女にとっては幸運であるだろう。若干顔をひきつらせながらも、自分の行った事が無意味ではなかったと、ラモートは感じていた。
「私に角など無いはずだが……そもそも角のある人間など――いや、いい」
「えへへ―」
 無邪気な子どもの笑顔は、あまりにも眩しい。その前には、角一本どうという物でも無い。
「今からお祈りの時間だ、リベラ」
「はーい」
 聞いてみれば名前すら無かった少女に、一つのシンボルを与えた。少女は喜び、それを受け入れた。聖女の如く――


「ラモート卿、最近幸せそうですね。自分にも分けてくださいよ。分けてくださいよ」
「生きているだけでも幸せだと考えればいい。幸せになれるだろう」
「そうなのでしょうけどね、ラモート卿の幸せは今のところ度を超えています! 幸福量保存の法則に踊らされないためにもここらで分け……」
 この男は熱心な信者でこそあれ、上司相手であってもあまり考えていない発言をするのが玉に瑕であり、教会の上層部の人間には好まれていない節がある。特に、風上にも置けない者達には不評だが――そういった者はラモートの勘定には入っていない。彼にとっては考えるに値しない。
このように考えているだけでなく、ある程度は態度にも表されている。仮にラモートがただの一信徒に過ぎなければ、今頃どうなっていたかは分からない。いや、その場合は態度を示しはしないだろうか……? この問についてセレニアに聞けば、馬鹿な事を聞くなあ、とでも言われるかもしれない。……類は友を呼ぶのだ。言うまでもない。
「その法則に基づけば、あの街の住民は自ずと救われるだろう。否定だ」
「随分嫌な例を出してくるじゃないですか。ラモート卿は悪魔か何かですか、角でも隠しているんじゃないですか?」
「「娘」の書いた似顔絵に角が書いてあったぞ」


 そして、更に年月が流れた後の事――

「教会勤めとは、リベラも随分と熱心なものだ」
「わたしはラモートさんほど敬虔な信徒と言う訳ではありませんよ……!」
 くすくす、と笑う女性。身にまとう修道衣にはほとんど皺が無い。
「今更だが、別にこの道に入る事は無かったんだぞ」
「お祈りの時間だなんて呼びに来た方が何を言っているのですか。それに、わたしは自分の意思で選んだのですから、ラモートさんが心配する事なんて何もありません」
 ずっと笑い続ける。何がおかしいと言うのか……ラモートには分からないが、おそらく彼女にとっては何かが面白いのだろう。とはいえ、彼にそれがよく分かった事は無い。
「それならいい……が、無理はしないように。手はしっかり洗うように。食事はしっかりとるように。あと、変な男に付いて行ったりしないように。あと――」
「わたしはそんなに子どもじゃありません!」
 むくれた表情になるリベラ。ラモートからすれば、ずっとくすくすとされていたお返しのような物に近いが、大人気ないような気もするだろう。言っている内容は大人気が必要以上に強すぎるが。
 しかし、過剰に心配になるのも当然であった。彼女の行先は、この街の教会ではなく。川を一つはさんだ先にある、遠からずとも――近からず、そのような場所なのだ。引き取って十年以上が経過した今、ラモートの心境は本物の親の物であった。
「そうだな、心配はいるまい。お前は強いからな」
「え、わたしは街を守る事は――」
「いや、一体何を言っているんだ……?」
 出来る限り会話を引き延ばしたい。双方がそのような思いを抱える。しかしそれでも、終わらせなければならないという思いは働く物で、いつしか――
「……あの、ラモートさん。本当に――ありがとうございました」
 丁寧に頭を下げ、部屋を出ていく。言葉を返す間を与えてもらえなかったラモートだが、それでも――
「私だって、礼を言わねばならないのだがな」


 遠い過去の日に思いを馳せると、何かが緩んでしまいそうになる。
「年をとるといかんな、全く」
 その日は、あの時と同じだった。また、あの街へと向かう。その途中で、ふと考え込んでしまった。彼女を拾った日の事を、彼女が巣立った時までの事を。
 月に一度はやってくるリベラからの手紙は、数えるともう五十枚を越えた。その手紙の中には、親切な人に助けられた事や、パンがおいしいなどという日常的な事から、危うく命を落とす所だったという非常に物騒な話まで様々だった。最近では友人だという青年の似顔絵を送ってきたこともあったが、親代わりの身としては微妙な気持ちになる。それと同時に、何となく嬉しくもあったが。
 仲が良いという青年に、聖職者は云々という文章を書いて送ったり、らしくない行動もしてしまい、セレニアにはかなり冷やかされてしまった。
「子煩悩子煩悩……あー、でもその青年は憎みたくなりますね、だってリベラちゃんと仲いいんでしょう? 本当、可愛い子と仲いいのはすべからく憎くて――」
「落ち着け、何を言っている。我々は婚姻などと言う物とは元々無縁だろう? それを覚悟で入ってきていないのか?」
「思春期の前にこういう道に入ってしまったんですよ、知ってたら……」
 これ以上は面倒だと考え無視する事にする。しかし、そうなるとまた意識を過去に飛ばしてしまいそうになる。
 それを遮るかのごとく、馬車の揺れが止まる。
「ん……着いたようだな。出るぞ」
「またラモート卿が一人連れてくると思ってますよ」
 また冷やかすような冗談を放ちながらの笑顔を見せられる。それについては、ラモートはむしろ羨ましいと思っていた。
(もう少し、せめて少しだけでも、楽観できればいいのだが)
 その願いとは裏腹に、不安は広がっていった。過去を眺める事で、押さえていた不安が。


「奴等を殺せ!」
「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」
 彼にとって、想像以上に悲惨な事態が待っていた。あまりにも野蛮な声が上げられ、その絶叫に耳を痛くするものの、それ以上にその視界は最悪だった。
「……戻らなくてはな」
 着ていた服を全て脱ぎ捨てる。普通ならばそのような事はしない。しかし、「奴等」というのは、自分達の事である、と判断した以上、そうせざるを得ない。
 前回は、あまりにも服装が華美だった。いや、本来いる場所ではそれぐらいが普通なのだが、隠せればそれでいい、程度の考えが普通であろうこの場所ではあまりにも目立った。それゆえ、今回は大分抑えてきた。ただの布の服に教会のシンボルの十字を首にかけて終わり、なのだが――
「まさか、このような事になるとはな」
 あの頃以上にこの街の状況は悪化していた。服も風化したのだろうか、何かを身に着けている事すら稀に見える。そして今、服装で判別される恐れがあるとしたら、そのリスクは可能な限り押さえ込まねばならない。

「全員いるか?」
「二人いませんが……!」
 まだまだ二十歳に満たない、という程度の青年が急いで声をかける。手際よく確認をした――欠けていない。
「ならば全員いるな。出るぞ!」
「え? どういう意味ですか!?」
「もう、いないのだ!」
 あの光景を思い出したくはない。逃れるかのように、声を張り上げる――

 馬車は走る。ただひたすらに走る。逃げるように、いや、事実逃げている。彼らが追ってくる事は無い。追う事は出来ない。だが、あまりにも恐ろしい光景がまた目に見えそうで、ラモートは後ろを見ないようにしていた。
 まさか、これほどのトラウマを植え付けられることとなるとは、全く思っていなかった。そして同時に、これほどまでに自分が無力である事を思い知らされる事はこれまで無かった。様々な感情が混ざり合って、彼に今、まともな思考は出来そうになかった。
「最悪だな……無力どころか、全て裏目だ」
「ちょっと今回ばかりは――何もいい事無いというか、悪い事しか無いとは、とんでもない世の中になったものですね……これまで、こんな事は無かったでしょう。何が何だか。何と言えばいいのか」
 内容と裏腹に口数の多いセレニアだが、むしろこうでもしないと耐えられないのだろう。彼は、ラモートほど不安は感じていなかった。それゆえ、これほどの事態が起きた事に動揺を隠せないのだろう。人間、不安が度を越えれば、どこかしらの行動に異常が出る物であり、そう考えるならセレニアは今、自然体である。
「はあ……ヴァーティさん、女の子に人気あったんですよね……あの子達、教会に来てくれなくなるかも」
「あいつの親に何て言えばいいのか分からん……もう、どうすればいいんだ」
 罪無きはず――少なくとも人の視点で見れば――そんな犠牲者の名前を口に出すと、より一層気分が落ち込んでしまいそうだった。それゆえ、その後その名前が出る事は無かった。
 蹄の音、車輪の音、いつしかそれだけが全てになり、何もかもただ平坦に、時間は過ぎていった。

 暗い中でただ一人呟くのみ。隣に誰もいない、目の前には誰もいない、後ろから見守る者もまたいない。誰かに聞かせる訳にも行かない、誰もが沈み込んでいる時に。彼は熱心な信者であるが、懺悔室に何らかのイメージを持ってはいない。そこにいる相手は人。例え人でなかったとしても、誰かだ。誰かを相手に、彼は延々と愚痴を言い続けられるタイプではない。神への許しを請う気すら起きない。ただ誰かに聞かせるでも無く、自分に言い続けるのみ。
 自分の声以外の音が聞こえないこの空間は、今、彼にとって救いだった。紛いなりにも確かな立場、あまり弱みを見せるのはよろしくない。
 それでも、彼はこうせずにはいられなかった。しまいこんでいては、いずれ何かが壊れてしまいそうだった。だから、何処かに吐き出さないといけない――しかし、人に聞かせたくは無い。
「死ぬならば、まだ若い者より私のような先行き短い者の方がいいだろうに……神よ、彼等の魂に安息を――どうか――」
 ただ許しを請うべき相手は死した者、訳の分からないままに命を落とす事となった哀れな魂。

 元々、この「ボランティア活動」はラモートが言い出したものだった。リベラの一件の事はやはり彼にとっては大いなる希望となり、彼はまた自分が、あるいは別の誰かが何か出来るのではないかと、薄く考えていた。まるで天使に導かれるかのごとく、彼は精力的に動いていた。そして、「二度目」を行う事を確定させた。もう一度、誰かを救うことが出来る。恋は盲目と言うが、希望もまた盲目なのだろう。
 暗雲が立ち込めたのはその僅か数日前だった。彼は、街にやって来た行商人から不穏な事を聞いてしまった。
「最近、武器が流通しているみたいなんですよ。差し止められているはずなのですけどねえ……」
「武器? また、戦争が起こると……?」
「ええ。ああ、それと……流通しているといっても、売買が行われている訳じゃないらしいです。何でも、奪われているとか……同業者の死体って、見たくない物ですよ……思い出しただけでも寒気がしてきそうですから」
この周囲でも見た、という言葉に、芽生え始めた不安はその根を深く張っていった――

 今に至る。責任、負い目を感じ続ける中、いつしか言葉は無くなっていた。あまりにも考え無しだった。一度の「幸運」を再び得ようとするなど、過ちだった。強過ぎる公開の念が鎖のごとく絡まり、暗い空間に幽閉された彼は瞳を閉じ、時は流れていく……

 彼の心境などいざ知らず、逆境は以後も続いた。ラモートの事を良く思わない他の枢機卿は彼を執拗に責め立てる。表向きは聖職の上層の存在、そのような者達が揃って同じことを言えば人の気持ちもまた誘導されていくに決まっていた。いつしか彼を見る目は堕ちていく。冷え切ったそれは、煉獄をラモートに感じさせた。彼からすれば、死なせてしまった者達は、自分が裏切った者だと考えていた。ならば、凍結するような底辺の地獄は自らに相応しい――そう、考えてしまう。

 その中で、彼は幸か不幸か――揺らがない物が存在した。何かをするべきだ、という思い。初めにあの街を訪れた時のように。自らが動かなければいけない。その思いは、今もある。むしろ、罪を背負ってしまったからこそ、やらなければならない物がある。それ故に、彼は今日も動き始めた。
 あの一件から、彼がずっと続けている事。

 大したことではない。
「ラモート卿、今日もこんな時間からですか?」
 朝の早いセレニアが話しかけてくる。一見、彼を見下しながらにやにやしているように見えるが、この男の真意という物がラモートに分からないはずはない。
「自分も手伝いましょうか? ゴミ拾い」
「いや、これはお前の仕事では無い。私の仕事だ」
「おお、流石ラモート卿は違う。お似合いですよ」
 あまりにも無礼な物言いである、が。
「まあ、もうあっちはやってしまったんですけどね。別にラモート卿に許可取る必要なんて無いですよね」
 彼は迂闊な事など言っておらず、ただ自分には癒せぬものを否定しないのみ。ラモートのような堅い人物には、むしろその方が都合がよかった。この調子も、彼ながらの気遣いなのかもしれない。
「と言う訳で奢ってくださいよ、ラモート卿」
「それは断る……」
 素であると言う可能性が否定できない。だが、普段通りなら――それでもいい。あの時以前から変わらないものは、最早貴重な物となってしまった。
ここはコキュートスでは無い。自分にはもったいない――そう彼は思うかもしれないが、どうだろうか。感じるにしろ感じないにしろ、彼は、また別の場所へと向かった。


 ラモートがまた別の場所へ向かうのを見て、溜息を漏らす。
「逆効果だったかもしれないな……」
 誤った観念に囚われている。そんな彼を何とかしたい――そう思ったが、荷が重いようだ。彼にはラモートの抱えてしまった物の重さの全ては分からない。中途半端な重りを背負ってしまった以上、彼にはこれ以上の重さが分からない。だったらむしろ、重りを背負っていない人物の方がいいのかもしれない。それでいて、彼の事を理解できるであろう人物が――
「ああ……その手があったんだ」


「私はこの場に居るべきではないのかもしれない」
 暗闇は安寧の地、彼の本心の場所、ただ一時、彼のみの場所。時が流れるにつれ、暗闇は深淵の底では無くなったのかもしれない。
「だが、まだ出来るはずだ……この身滅びるまで――」
 しかし、その先は楽園などではない。見えない壁の向こうで、もう一人の人物は考えた、彼自身は晴れつつあると思い込んでいる、彼の囚われている暗闇は……

「貴方は、十分に頑張っているではありませんか」
「――いたのか。いつから聞いていた?」
 突然の声は彼を驚かせるには十分だった。誰かいるかを調べることなど、既にやめてしまった。油断は禁物とはいえ、これを予測する事は――いや、それこそがまさしく油断禁物の意だろうが。しかしそうであっても、この声が聞こえる事など考えることは出来なかった。
「わたしはずっと見ていますよ」
「ずっと……? ストーカーではあるまい。リベ――」
「い、いいえ。わたしはそのような人ではありません! そう、わたしはあなたを見守る天使です!」
 一体誰に何を言われたのかは知らないが、自称天使は何か自分に言いたい事があるのだろう。しかし、別の場所にいるはずの彼女が何故ここにいるか――予想も付かない。
「そう無理をするな、隠せんぞ」
「いいえ、ここは懺悔室です! そしてわたしは天使です!」
 頑なというよりもう自分に言い聞かせてるようなその言葉にはさすがに苦笑する。しかし、その表情は途端に固まる事となった。
「それに、一番無理をしているのは貴方じゃないですか」
 一瞬、思考が止まる。しかし、それは否定したい。
 否定させてくれ。
「私は無理などしていない、いきなりどうしたというんだ? 私は普段通り――お前がいた頃と同じように過ごしている。私は――」
「誰でも、そう言うんですよね。無理をするなっていうと無理はしていないっていう。貴方は今、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ――気に……」
「大丈夫かって聞くと大丈夫だっていう。そういうものですよ……大丈夫じゃないから、それを隠したいから言うのですよね」
「違う……」
 何故このような事を言われているのか。自身はただ出来る事をやろうとしているだけだ。昔のように。昔以上に。自分に出来る事があると信じているのみ。それをどうして「無理をしている」などと言い換えてくるのか。

 それはつまり、彼自身も分かっているから……

「違う、無理などしていない! 私はやるべき事をやっているのみだ、それを何故!?」
 自身の発言の意図すら揺らぎ始め、彼に出来る事は声を荒げる事しかない。ただ、目の前の相手から目を逸らすしかない。自身の事をよく知る者から目を逸らすしかない。しかし、どこを見ても黒一色。どこに目を向ければいいか分からない、どこを見ても彼女の見える光景と変わりない――そんな事は無いのに、混乱した頭では全てが同じに見える。囲まれているかのように思える。囚われているかのように――
 そこに囚えたのは誰だ?
「貴方のやるべき事はそのような事ではありません。本当にやるべき事は……」
「私は私のすべき事を知っている! それは――」

 ただ力任せに物を投げた所で、狙った所に飛んでいく訳じゃない。どのような物も、外れれば意味は無い。
 0に対してなら、ただ静かに、正確に、届けるだけの力しか無くても、


「こんばんは、ラモートさん! お休みをあげる、なんて言われたからちょっと戻ってきてみたんですけど……」
「そうか……それは本気で言っているのか?」
 教会の外でようやく姿を見せた、帰ってきた「娘」。彼女は本気でこのような事を言ったのだろうか。その答えは――本気だろう、としか言えない。
「お帰りの一言も言ってくれないんですね……数年ぶりなのに」
「タイミングを逃した……」
「おやおや。ラモート卿は冷たいのですね」
「……久しぶりだ、誰かを殴りたいと思ったのは」
 見計らったかのように現れた男に対して暴力的な衝動が湧いてくる。しかし、その衝動に素直になると問題だ。それに、感謝しなければならない。
「……すまなかったな」
「え? 何の事ですか? ラモート卿、おかしく――」
 暴力的衝動に身を任せてもいいだろう。枢機卿だと何だと言っても人間である。

 数年の間、彼を苦しめていたのは自身の思い込みに近かった。かつて非難の目を浴びせてきた道行く人々は、最早彼に見向きもしないか、あるいはその行いを反省したかしかない。それが、どういう意味であれ……
 ラモートには余裕が無かった。何にも気付く事が出来ない。例え、それが子どもにも明らかな事であっても、不安、焦り、様々な感情がそれを覆い隠してしまう。時には生物の欲求まで超えてしまう負の連鎖には造作も無い事だろう。
 それを変える事は、難しい――一人では。
「リベラはどれほどこっちにいる気だ?」
「友達が、ゆっくり休暇を楽しんでくればいい、なんて言ってくれたので――そうですね。十年?」
「友達を無くすぞ」
「リベラは今男の友達がいるって話でしたから――その男に嫉妬ですね。自分はそろそろまずい――」
「お前は……まあ……恋がしたいならまずその服を脱げ。話はそれからだ」
「いい相手が見つかったら脱ぎます!」
「都合のいい時までは神を信じるという事か。地獄に落ちるだろうな」
 こんな歳になって、気付く物なのか? でも――少しぐらい、気を楽にしてもいいのかもしれない。

「そういえばラモート卿。今日はゴミ拾いしないんですか?」
「そうだな……君に任せよう」
「え?」
「セレニアさん、頑張ってくださいね!」
「え?」

暗闇に、光は差した――まだ僅かだが、いずれ空のごとく――自らが彼方に浮かぶまでに、この光は。


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