朝は鐘の鳴る音から始まった。それは彼にとっては目覚まし時計のような物である。三度繰り返し鳴り響くとその音は止み、また静寂へと彼の世界は還ってゆく。それは毎日繰り返されている事。まどろみに浸っていたい……そうも考えたが、彼は起き上がることにした。理由は、腹が減った程度の物である。だが、生きている上で夢も目的も無ければ、この理由も相対的に大きな理由になるのだろうか。
「今日は……俺の番、じゃあないか」
 今日も午後になれば勤めが始まる……と思ったがそんな事も無く、今日は彼は非番だった。だが……そうなると、今日はあまりにも暇である。
 ああ、何故自分はここにいるのだろう。彼はそう思わずにはいられない。
 かつては敬虔な神の信者であった。毎日毎日、祈りの言葉を空へと投げかけ続け、その事に喜びを感じていた。そんな彼が教会で勤め始めるのは当然にも見えるかもしれない。しかし、現実は彼のような人間すら変えてしまうほどに希望の無いものであり、教会での勤めが始まった数ヶ月後には彼の信仰心などと言う物は奈落の底へと沈められることになってしまった。その堕落への道のりは、思い返す度に空しさを感じる。
 光あれ……そう唱えても、光差すことなく。


 持て余すほどの暇は、日の半刻を鐘が打つまでも結局潰えることがなかった。その末に彼がしていたことと言えば、ただの散歩。街に出れば、彼にとってなじみ深い光景が広がる。石畳の通りを歩く人々。威勢のいいパン屋の店主に、毎日同じ場所で行われてる婦人の会議。
 街並みを歩けば立て掛けられた十字架。小さな小さな礼拝堂。捧げられる言葉達。それらは懐かしく、心地の良いものだった。
「神よ、神の愛に溢れしものよ、どうか祝福を、我らの道を照らしたまえ……」
 祈りの言葉は彼にとって聞きなれた物であり、平穏の象徴だった。しかし、いつしかその意味は忘れられ、ただ繰り返されるだけの物になっていた。そのような中で、今の言葉は彼の中に忘れていた者を思い起こさせる。いつもと違う、いつも通りの言葉。

「……人の隣に天使は立ち、天使の隣に人が立ち、……」
 一冊の本の中に人々の考える真理がある。そんな事を信じていた。教会はその本に書かれたそれこそが真実だと言った。それ以外のいかなるものをも拒絶するかのように。
「懐かしいな。昔は俺もこうだったかな」
 その昔、神を信じる者の言葉を重く感じていた。それぞれ異なる理由を持ち、救いを請うか……何かを誓うか……あるいは、何なのだろうか。とにかく、崇高なものだと感じていた。
 一方で、神を信じない者の言葉は、軽く感じた。彼らに共通していることは一つか二つ、どれも揃ってちっぽけな物事に想えてしまった。それを彼らは神以上に崇め奉り、そして愛していた。それが、彼には分からなかった。

 彼がその小さな礼拝堂から、街の中心に位置する大聖堂に移ったのはつい二年程前の事であった。かつては他者に比べ信心深かった、そんな青年のために、小さな町の神父が取り計らってくれた。その時代、彼は日雇いの仕事をして日々の糧を得ていた。そんな彼にとって、これは見過ごせないチャンスであった。司祭職に就く事で、自らの信仰を糧に生きていける。彼は神に感謝し、そして聖堂へとやって来たのだ。
だが、大聖堂の助祭となって数週間。信心深かったゆえか、彼はとある違和感に気付いた。
 日々の祈りの言葉。神への感謝。それは、彼にとって普段聞きなれた言葉だった。しかし、彼にとってその祈りは、ただの文章にしか思えなかった。
「人の隣に天使は立ち、天使の隣に人が立ち、そして神の光の元に――」
 おかしい。何かがおかしい。違和感が彼の中に募っていった。それが何か分からないまま日数だけが過ぎていく。そんな日常が続くと、人生が色褪せたかのように彼の気力は失われていった。

助祭となって半年。彼はようやくその違和感の理由を知る事となる。
「疲れたな、全く」
 気だるそうな雰囲気を漂わせる。しかし、懺悔室で信心深き者達の言葉を聞くと、少しだけかつての調子が取り戻せるような気がした。人の本当の気持ちに触れる事は、今や彼にとって唯一の癒しとなっていた。そういった意味で、彼は懺悔室にやってくるさまよう子羊達に日々感謝していた。また、彼を信頼して悩みを相談しに来る人も多く、そういった会話もまた彼の楽しみであった。人の悩みについて、真剣に考える事は、言い方が悪いかもしれないが――彼の最大の娯楽なのかもしれない。 ……そんな娯楽の中の話。
「あなたは本当にいい人だ。こんな僕の悩みについて、真剣に考えてくれるなんて」
「大した事ではありませんよ。迷える者を導くのも、神の信徒の役目ですから……それにしても、私でなくとも他にも相談出来るような方がいらっしゃると思うのですが……」
「いえ、あなたぐらいですよ……」
 この日相談してきた青年は、常連客と言ってもいい人物だった。年齢が近く、相談以外でも時々会話をしていた。
「他の方は何というか……その……」
「そのような事を言ってはいけませんよ。ただ……私を強く信頼してくださるというのは嬉しい事です」
 司祭職の人間として、普段の調子で話す傍ら……彼はこんな事も考えていた。――そんなに、他の人は頼りにならないのか? 俺のようなのが一番いいわけじゃないだろうに。
 話が切り上げられ、他の勤めに精を出す。しかしその最中、一つの部屋から声が聞こえてきた。
「――え、大変感謝しております。全て貴方のおかげですよ、司教様」
 声の主は誰かは分からない。しかしその相手は、この街の教会の最上位に立つ司教である。
「ほほほ……礼には及びません」
 男は深い恩を司教に感じているのだろうか。司教と直接話をした事は無いが、余程いい人物なのだろうと彼は考える。しかし、直後の会話で凍りつく。
「しかし……礼の代わりと言っては何ですが、少し『寄付』して頂けますか? 何しろ、人は高い物なので……」
 意味が分からなかった。人が高い?
「ついついばら撒いてしまうのですよ。私も、徳のある身分ですので。女も徳のある者に付いてくるのでしょうねぇ」
「流石は司教様……今日もまた?」
「その通り、しかし手持ちが無いのですよ。私を慕う子羊達のため、どうかこの私にご慈悲を」
「当然でございます。こちらを」
 ジャラリという、出来ればこういった場では聞きたくない音が聞こえた。
「今月分の寄付金です、どうぞお納めください」
「感謝いたします。あなたに神のご加護のあらんことを」

 彼は、失意のままに帰路に就いた。

 その後の彼は、以前に比べ更に無気力になった。日々の「娯楽」に没頭し、ひたすら上の事を忘れようと努めた。信心などと言う物は消え失せ、彼はただそこにいるだけとなった。彼を頼る人がいないのなら、どこに行ったことだろうか。
 輝く十字の飾り、煌びやかな祭壇、美しい宗教画、どれも毛ほどの価値もない。虚飾の中で、人々の祈りが木霊する。神は、偽物の祭壇で祈る人々を救うだろうか。愚か者だとして切り捨てるか。もはや、何もかも意味が無いように思えた。少なくとも、この教会に神はいない。
 それでも神の導きを、天使の照らす道筋を求める哀れな子羊達は、今日も教会を訪れる。そんな彼らに、教会の代わりに僅かな救いを与える――彼の、唯一考えられたことである。今や、娯楽どころか……心を埋める物など、それだけしかなかった。二年前の自分が今を知ったらどう思うだろうか。それを考えると何かが決壊してしまいそうで、彼は努めて考えないようにしていた。

 時は戻り今。まだ若い彼には、普通なら幾つかばかりの浮いた話があってもいいものだが、司祭職に就いている以上は無縁の物である。あのような事もあり、今の職に就いてしまった事への後悔は尽きない。
 懐かしい感覚の言葉を聞きながら歩みを進める彼は、そうやってまた一つの空しさを持って――
「うわっ!」
「あっ……」
 考え込みながらも耳だけはしっかり働かせて――しかし、目は働かせなかった結果、すぐ目の前にいる人物にすら気づく事は無かった。
「す、すみません。お怪我はありませんか?」
「あ、いえ……俺の方こそ前方不注意で」
 その顔を上げてみれば。
「申し、わけ……」
 彼の言葉はそれ以上続かなかった。先程とは、逆転していた。その目は、目の前の人物――彼よりやや年下に見える女性を捉えて離さない。代わりに、耳は機能を停止していた。
 美しい。それでありながら可愛らしい。流れるような金色の髪にふと目が行く。やはり……美しい。
「……」
「――あ、あの、本当に大丈夫ですか?」
「え? あ、俺は分かりません……」
 やはりよく聞いてないのか、少しちぐはぐな返答を行う。
「わ、分からない? ど、どうしよう。頭打ったのかな……」
「あ、いえ、どうかお気になさらず。俺はきっと大丈夫ですから」
 改めて聞くと、その声も魅力的に感じる。
「そ、そうですか? よかった……」
 若干、停止する。しかし、女性の方が一言切り出す。
「あの、大聖堂の場所……お尋ねしてもいいでしょうか?」
「大聖堂? 貴女はこの街に来るのは初めてですか? ……分かりました、案内しましょう」
「本当ですか? 助かります!」
 どうせ暇なだけ。いくらプライベートな散歩とはいえ、仮にも聖職者として生きている。だったら、少しの人助けぐらいは当然だろう。
「俺は、普段あそこで勤めてるので。大聖堂に行きたい何ていうのなら、喜んで案内しますよ」
「そうですか? 実は――わたしも、これから大聖堂で勤めさせていただくことになっています」
「え?」
「川を挟んで、引っ越してきました」
 この街の近郊を流れる川の向こうにも、街がある。この場所ほど大きくは無いし、いわゆる「大聖堂」も無いが、中々賑わっている。
「うーん……でも、この街の大聖堂の場所は知らない、と」
「予想以上に大きい街だったから、迷っちゃって……」
 確かに、広い街だった。しかし、迷うだろうか? 大聖堂は大きい建物である。街の多くの場所から見えるのだが……
「え、あれが大聖堂ですか? てっきりお城かと……」
「城って。この国は議会制なのに」
 残念ながら、この街に城の旧跡など無い。いや、残念かどうかは人によりけりだが。

「着きましたよ……って、言わなくても分かりますか」
 道中、思ったより話が弾み、彼等は楽しい一時を過ごしていた。それはすぐに過ぎ去り、彼としては残念な気持ちになってしまう。とはいえ、彼女もここで勤めるというのだ、これは最初であり最後ではない。今後の無味無臭な日常も少しは華やかになりそうだと感じていることだろう。
「それじゃあ……俺は今日は勤めの日じゃないので――」
「はい。それじゃあ、また今度お会いしましょう!」
 今度があるのは、彼にとって嬉しい。大聖堂の中に入っていく、日常の中の花を見送りながら……
「神はいるのかいないのか」
 そう、呟いた。


 また、朝が来た。しかし、目覚めを彩る音は聞こえない。外を見ると、ほんのりと暗い。
「俺って、早起きだね」
 別にそんな事は無いのだが、それは彼自身も分かっている。今日、早く起きた理由も。これほど無気力だというのに、随分と現金な奴だ……そうやって自らを皮肉りながら、再び倒れる事も無く起き上がった。手早く朝食を済ませて、目覚まし時計の鳴る前に家を出た。聖堂への足取りが軽い。彼は思う。ああ、一つの出会いはこれほど人を変える物なのかと。一輪の花は、人生観を変え得る。甘い蜜に誘われた蝶のように、惹かれていく。

 彼はその日聖堂に一番に着いた……
「あ。貴方は昨日の。昨日は、本当にありがとうございました」
 わけではなかった。修道衣に身を包んだ女性に迎えられる形となった。
「はやっ……あ、いえ、お早いですね」
 彼がまだ信心深かった頃はいつもこの時間に聖堂に到着していた。そして誰もいない礼拝堂を一人で掃除していたものだったが、彼女の、朝を迎える早さはこれ以上だったようだ。
「最初の日なので、つい張り切っちゃったんです」
「いやいや……それにしてももうこの時間に身支度整え終わっているのは素晴らしい」
 そう言うと、自身も服装を整えるために一つの部屋に入っていった。

「俺は、今日はたまたま目が覚めて……」
 さすがに、貴女に会えるのが楽しみで……などとは言えず、たまたまという事にした。目の前の修道女はおそらくそれには気付かないだろう。気持ちを知る事もなく、笑顔を湛えている。
「それじゃあ、一緒にお掃除しましょう?」
「はい。喜んで」
 嘘ではなく喜んでいる。彼にとって、目の前の修道女は神に遣わされた天使の如く。

「神の愛に満たされた世を……」
 朝の礼拝の時間が終わり、ここから再び勤めの時間……のはずであったが、朝早くに色々と終わらせてしまったがため、二人にとっては休憩時間も同然であった。
「二人とも、朝早くに随分とやってくれていたようだな……これ、差し入れておこう」
 聖堂の司祭……一つ上の位に位置する壮年の男性が、飲み物を持ってきた。この男は、助祭の男から見ると唯一の信頼できる上司であった。
「「ありがとうございます、司祭様」」
 テンプレートのような返しをしたがゆえに、全く同じ返答となる二人。
「おやおや、仲のいい事だ。くれぐれも、不埒な事はしないように」
「あー……当然ですよ。一応自分も司祭職の人間ですから……」
 司祭職に就いている者は妻帯を許されていない。元々は、彼自身としてはあっても無くても同じ……だと思っていたようだが、それを言われると、何だか厄介な仕組みであるようにも思えてきたことだろう。

「えっと、貴方はいつからここに?」
「えっと……俺は、二年前からここで勤めてますけど」
「二年前ですか。わたしも、二年程前に修道女として認められたんです」
「き、奇遇ですね!」
 未だ舞い上がっていると言えるであろう彼は、先程の発言が信じ難いほどに煩悩の塊と化しているようにも見える。見る人が見れば、餓えた猛獣の目をしていると指摘するだろう。
「ところで、何故このような道に進もうと思ったんですか? お若いのに修道女として認められているって、相当ですよ」
 教会の体制に対するさりげない皮肉も織り交ぜながら。
「昔、教会の方に助けて頂いた事があるんです……わたし、物心ついた頃には両親がいなくて。物乞いをして生きてたんですよ」
 皮肉に気付く事の無い修道女の口から語られた話が想像していたより重く、次に口を開く機会を失う助祭。
「そのうち、生きるのも面倒になっちゃって。全く楽しい事なんて無くて、これなら死んだ方が遥かにいいんじゃないかな、って思ったんです」
 彼女はやや寂しそうな表情を浮かべる。何だか、質問した事を申し訳なく思わせるほどに。
「そんな時に、教会の方がわたしを拾ってくださったのです。向こうの街の司祭の方なのですが……本当に優しい方でした。可愛がってくれましたし、文字の読み書きとか、いろいろ教えてくれました」
「でした、かあ」
 聞こえない程度に声を漏らす。
「なので、教会には恩があって。その恩を返すのが、わたしがこの立場を目指した理由です」
 寂しげな雰囲気を残しつつも笑って見せる。聞いた側からすれば、むしろ笑ってくれない方が楽だとも思うほどの笑顔。
「えっと……立派な理由ですね、俺なんて、どうしてこのようになってるのか、今じゃよく分かりませんよ。何しろあんな――いや、まあとにかく……」
 思わず、言葉を続けてしまいそうになるが、それを何とか抑える。聞かれて、目を付けられたりでもしたら面倒だから。
「それは、きっと自身の知らない内に神様のお告げがあったのでしょう!」
 寂しさを取り払った……光り輝くような笑顔を見せられ、苦笑いするしかない。
「はは……確かに、そうかもしれませんね」
 かつての信心深さを考えれば、もしかしたらそうだったのかもしれない……しかし、本当にそうであるならばきっと……今だって。
「あ、若いって言ってももう30は過ぎてますよ」
「マジか、……じゃなくて、そ、そうなんですか。でも若く見えますよ」
 年上だった。もっとも、彼からしてみればそれで魅力が落ちることも無く。そもそも、やはり修道女としてはかなり若いことに変わりはないのだが。

 無気力な日常に少しの希望を持ったあの日から、幾月か経過したある日もまた、彼は鐘の鳴る前に家を出た。今となっては、昔のような生活リズムへと戻りつつあり、朝早くに聖堂に来ては、掃除をしていた。しかし、どうしても超えられないのは――
「「おはようございます」」
 あの修道女は、毎日彼より早く来るのである。一応、一度だけは彼女より先に聖堂の中にいた事があったのだが、その日は疲れていて、前日に聖堂の一室で眠りこけてしまっただけだった。
 つまり、まともな形では彼女より早く来たことは一度も無い。
「さて、今日も掃除掃除と……あれ?」
 数か月同じ事を繰り返してきた彼は、同じでは無い事に気付いた。
「何だか……顔色悪くないですか?」
「そ、そうですか? 確かに、何だか今日は少しぼーっとしちゃって……見て分かるほど悪いですか?」
「うーん。まあとりあえず大事に至らないためにも、医者に見せた方がいいと思います。怖い病気の可能性もありますから。早く治療を始める事が大事です」
 強く好意を持っている相手に対して気を使うのは当たり前の事。それがなくとも、彼は以前から、困っている人に親身になって相談を聞いたり……そういった人物であるがため、余程の相手でなければ同じ対応を取る事だろう。要は、その度合いの差であろうか。
「ここから近くです。見てもらうだけなら勤めに支障が出るほどの時間もかからないはず。やることも終わりましたし行きましょうか」
「はい……お願いします」
 承諾の言葉を聞くと、彼はその手を取り、歩き出した。

「この症状は……成程、よく来てくださいました」
「え? どういう事……ですか?」
 感心したような、安堵したような、そんな表情の医者を目の前に彼女は疑問を隠せない。
「一体、何の病気なのでしょうか?」
「これは、放っておくと命に関わります……というより、まず命を落とすような、危険な病気の兆候……」
「えっ!?」
 もし助祭が気づいてくれなければ、下手をすると命を落としていたかもしれないのか。それほどまでの病気と聞いて、慌てる修道女。
「この程度の進行なら問題はありません。とはいえ特効薬の投与や、万が一の事態のためにしばらくは入院して頂きます」
「入院、ですか……」
 彼女はそんなに貯金があるわけではないようで、資金面でも心配があるようだった。しかしそれ以上に。
「入院は、絶対に必要ですか?」
「ええ、医者の立場としては、リスクを最低にするためにも、余程の事が無い限りは入院して頂きたいと考えます」

「入院ですか……それはまた。本当に危ない病気だったみたいですね」
 それでも、治療出来そうである現状に安堵の息を漏らす。
「でも、教会の勤めが――」
「そんなの、俺が代わりに貴女の分までやっておきます。穴埋めについては、無事治ってから考えてください」
「でも……」
 毎日早朝に来る、信仰に篤い、真面目で、そして恩を返すため働く彼女は、どうしようもない事情があろうと休む事を好まない。無論、他人に押し付けている訳ではないのだが……しかし、これは自身の話。
「仕事の面から見ても……貴女が勤めの最中にでも倒れたりしたら、倒れた貴女をここに連れてくるのに一人二人の労力を費やします。それで結局治らないなんて事になるくらいなら今入院するくらい大したことじゃないですよ」
「そ、そうですね……ふぅ」
 一つ溜息。仕方無いと分かった以上は、そうする他にはない。
「あっちには、俺が伝えておきますから」


「最近あなた、よく考え事しているみたいですが」
「え……あ、こんにちは。その……私が、そんなにぼーっとしているように見えますか?」
「ええ、それはもう」
 かつて、失望した日にも助祭に相談をしていた青年。近頃は悩みが無くても度々彼の元を訪れているが……助祭があの修道女の異変にすぐ気付いた事と同様、今となっては半ば彼と友人みたいになっているこの青年も、助祭の雰囲気の違いに気付いたようである。
「うーん……そうですね。ほら、今日はあの人がいないでしょう。以前から勤め始めた方が」
「そういえば、見ませんが……」
「実は、今入院しているんです……やっぱり心配で。万が一があったらどうしようって」
 結局はそれであった。いざここに戻って来ると、やはり彼女の事が心配で仕方なくなってきたのである。
「そんなに心配するぐらいなら……うーん、「俺がお前の傍にずっとついてるから!」とでも言って付きっ切りでいればいいのではないかと」
「お、俺がお前の傍にずっと――う、うーん? 正直、私には恥ずかしくてちょっと言えませんね……はい」
 内心、こいつよくこんなに恥ずかしい言葉を思いつくな……などと思ってしまう。助祭は、ある意味でこの青年に感心した。
「それに、彼女の分まで働かなければならないので、仕方ありませんよ」
「だったら、早く全部終わらせて行ってしまえばいいでしょう。どうせあなた、普段も早く終わらせたら帰ってしまってるじゃないですか」
 そこまで言って、青年はふと笑みを浮かべる。
「ああ、でも彼女が来てからはそんな事もありませんでしたね。お若いですね」
「お前殴る――あ、いえ。貴方殴りますよ」
 動揺しすぎて、全く取り繕えなくなる。言い方を少し改めただけで、何も変わっていない。青年の方も若いはずだがそこを突っ込むことができないくらいの焦り方。
「まあ、確かにすぐ終わらせて行くのはいいでしょうね。じゃあ、頑張って勤めていく事にしましょう」
「頑張ってください。恋も」
「……私は司祭職の人間ですので、結婚は出来ませんよ」
 破りたくもなってしまうが、彼女のためにも破れない。

「薬って、思ったより美味しいですね」
 再び彼女と会い、最初にそれを言われてしまえば。
「入院って、味覚治療ですか?」
「え? 違いますけど?」
 助祭は、この修道女に皮肉は通用しないと気づく。純粋なのか。あるいは単純なのか。どちらでもあるのか……どちらも同じなのか。一人の女性に強く惹き付けられて離れない辺りは、彼もまた純粋だと言える気もするが、方向がどこか違う。
「それにしても、早いですね。もう終わったのですか?」
「見舞いと言う事で……やるべき事は全部終わらせて、きちんと了承は取ってきましたよ。だから、心配しないでください」
 心からの笑顔を見せる。目の前にいる人がその人であるがゆえの笑顔。普通なら、恋心だとか、愛だとか言ってしまうのだろうか。彼にとって恋の定義は立場上使い難いが、愛ならば少しくらいは構わないだろう。心を中心に据えているのだから。
「以前から思っていましたけど、いい人ですよね」
 修道女もまた、笑顔を見せる。
 ドキッという気持ちが助祭の中にまた芽生える。彼女の笑顔が、今までより一層輝いて見えた。
「いい人、ですか。他の人にも言われたことありますけど、俺自身じゃあよく分かりませんよ。毎日、他にやる事無いだけだと思いますし」
「つまり、暇つぶしにでもこういう事をしているんですよね? そういった考えに至れる事がいい人なんですよ、きっと」
「……そういうものなのか」
 よく分からない。この先も分からないのだろうか。もっとも、知ろうと知るまいと結局は同じであろう。信仰の欠片も今や無いような彼だが、今やそれを教会に繋ぎとめているのは彼女であった。逆に言ってしまえば、あれほどの現実を見せつけられながら、今また日常を楽しめている――本人は楽しいと言わないとは思うが――それは彼女がいるからであり、数か月の時間は、彼の人生を変えるには十分過ぎる時間だった。
 無気力は、終わったのかもしれない。
「俺はいい人だと自分では思えませんが。貴女から見た自分はいい人だ、という感じには捉えてもいいのですね」
「はい。この立場でなければ、お付き合いしたいくらいです」
「そうですか。えっと……俺も、その」
 続きは言えなかったが、もうその必要も無いのかもしれない。


 一年、二年、何年経ったか。ある日、二人は飽きもせず朝から聖堂内の掃除を行っていた。
「誰だよここでパン食ってたの……しかもこの散らかりよう」
 助祭はぶつぶつと文句を漏らしながら掃除を続ける。時にはこんな日もある。それにしては若干手際が悪いようにも思われたが。
「これじゃ朝の勤めまでに終わらないな……すみません、手が空いたらこっちを手伝ってもらえますか?俺一人では無理です」
「喜んで、お手伝いしますよ」
 また彼女の笑顔を見る。少しの機嫌の悪さならこれだけで吹き飛ぶ。この笑顔を見る事が彼の生きがいとなっていた。
「それじゃあ、早速手伝いま……あれ?」
「どうかしましたか?」
 突如出される疑問を示す音。
「今日、顔色悪くないですか?」
「え? まあ、確かに僅かに……僅かにいつもの調子が出ないような気もしますけど、気のせいでは――」
「駄目です、倒れられたらいけませんから、早速医者にかかりに行きましょう」
 首元を掴まれ、引きずられるような形で外へ連れ出される助祭、本当に心配そうな顔をしながらも力強く引き摺っていく修道女。この数年で、この二人の関係はまるで夫婦のごとく――当然そんな事は無いのだが、そう見える程になってしまった。二人の日常は楽しく――それ故に、相手を心配するのである。引き摺られる間……彼女の不安げな表情を見て、自分の幸せな立場を助祭は考えていた。
 信仰の有無は分からない。ただ、一つだけ。この日常が続く事だけを祈りたい。病院に付いて病名を聞かされ……苦笑い。いざ自分が立ってみると気遅れしてしまうものなのか、今度は彼がなだめられる番だった。
「しっかり治してから戻ってきてくださいね」
「はい」


 それからも彼と彼女の日々は平和で、幸せであった。これ以上は、語るべくもなく。
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