「忘れ去られた夢よ、またこの手に描ければ」



「ああ、僕は今から向かいます。九時の少し前に到着する予定です、今日は渋滞も無さそうですし」
 今日は忘年会――一年の終わりのこの時期を楽しみにしている者も少なくはない。この忘年会は無礼講、ちょっとぐらい、或いは結構なレベルで羽目を外す者も出てくるだろう。中には本当にビックリするような隠し芸を持ってくるような人物もいる。
「ええ、ではそちらで」ピッ
 今年も一年、よく働いた。一端を担っている一大プロジェクトも軌道に乗り、そろそろ一度ぐらい気を抜いても問題は無い頃だ。油断は出来ないが、気を張り詰め続けるのは逆に失敗を呼ぶ。
「……はあ」
 だけど、何故だか溜息が出る。どうしてだろうか。自分でも根源の分からない霧に包まれながら、彼は玄関を出て車に乗り込む。お気に入りの曲を流す――有名なアーティストの曲と言う訳ではないが、昔から聞いている。綺麗な、しかし少し哀しげな雰囲気の曲だ。
「……うーん」
 今の自分の気分とも一致してしまっているな――彼は思いつつも、車を走らせ始めた。


 今年も色々あった――様々な事を思い返す。日常の一風景から、危うく誤解で首を切られそうになった笑えない話まで様々だ。同僚の女性といい雰囲気になった事もあったし、それでいて結局何も進展が無く終了したのも今思い返すと冷静に考えられる。
 何より、今年はプロジェクトに限らず様々な事が軌道に乗っていた。異例のスピード出世を成し遂げ、業界内でも一躍有名に――とまではさすがに行かなかったが、少なくとも社内では一目置かれる存在になったのは確かだ。会社自体中々の規模を持っている――うまく行けば、将来はかなりの立場に立てるのではなかろうか。それはワクワクするような状況だ。もっとも、油断して一気に転がり落ちる可能性もあるが――そうならないように頑張ろう。そうしてまた来年へと思いを固めるのである。
 しかし、記憶の糸が何故かそのまま手繰り寄せられていく。今思い出すような物じゃない事まで思い出す。会社に勤め出したころの事や、大学、引いては高校以前の事まで。何故だろうか。
(センチメンタル――なんちゃって)
 咄嗟に頭に浮かんだ言葉が本当にその時に相応しい物か。そんな事は個人の思考の中ではいちいち気にしてなんかいない。きっちりしなければならない事なんて報告書ぐらいだろう。上司との会話の中で敬語のミスを犯しても自分も相手も気づいていない事ばかりだ。まあ、今時では完全にしっかりした敬語で話せば気味悪がられるくらいなのだが。
「はあ、どうしたんだろうなあ」
 口に出してみる――つい独り言を漏らしてしまってもこの空間なら問題無い。車の中はまだ、プライベート領域……とはいえ、あんまり独り言を繰り返すと癖になる――気を付けよう。そうやって色んな事を考えていても、やはりソースの分からないもやもやした気持ちがどこかしらに浮かんでいる。
「いや、こんな日ぐらいそういうのは忘れないと」
 また口に出した、という事は気に出来ないくらい、その言葉と裏腹に彼の心は波打っていた。静かに、しかしそれは全く収まる気配は無かった。


「カンパーイ!」
 忘年会の幹事の威勢のいい掛け声とともに宴は始まった。最初の一杯、グイッと行く者もいれば飲み物はそこそこに食べ物にがっつく者もいる。一方で少しずつ飲みつつ、あまり食べ物にも手を付けず……それでいて会話も少ない。そんな者も当然、いる。
(実質強制参加だしな)
 今の彼はまだ若いながらもやろうとすればこれを断れてしまうような立場だった。嫌味は言われるだろうから行動には移さないが。
 そこへ突然、横から声がかかる。会社の同僚――にして、大学時代からの友人だ。自分の方が出世しているが、その男はそういう所には無頓着だ。だからこのような場でも嫌味などを無しで話す事が出来る
「ほら、お前もグイッと行けよ」
「あ、ああ。んじゃあ」
 言われるがままにゴクリ、と飲む……ん?
「これ、酒じゃないんだな」
「ほら、部長が酒飲めないじゃん。だからそれっぽい味のジュースさ! 世知辛いよねえ」
 これは世知辛いというのだろうか……いや、酒に酔って嫌な事を忘れられないのは、十分にデメリットであるのだろう。
「ま、もう一杯行っとけって……ところでよお、お前さあ」
「ん、どうした?」
「何か暗くね? 心ここにあらずって感じだけど」
 自分の心を見透かされた――いや、むしろそんなにあっさり見えてしまうほどに顔に出ていたのか。彼は慌てて平静を取り繕おうとする――このような場で辛気臭い雰囲気を出していては周囲への好感度に関わる。それはあらゆる立場にも直結するのだから、気は抜けない――
 しかしそのような努力も虚しい。
「ほんとどうしたんだよ、残業の時より暗いぞ?」
「そんなに顔に出てるか……?」
「出てる出てる。あれだ、初めてかくれんぼする子どもぐらい出てる」
 例えが意味不明だが、とにかく全く隠せていないようだ。確かに先程から霧は晴れないままだが、それほどまでだとは。
「分からないな……疲れてるのかな。正月は寝正月にでもするかなあ」
「おうおうそうしとけ。ところでさあ話は変わるけどさあ」
「何だ?」

「お前、まだ絵って描いてるのか?」
 ハッとする――彼の頭の中に渦巻いていた霧の全貌が見え始める。
「……いや。描いてないなあ」
「そりゃ残念。お前の絵うまいから、今度何か描いてもらいたかったんだけどなあ。報酬ありの仕事としてでも」
「はあ。仕事?」
「いやあ、俺サークル立ち上げててなあ。まあ俺は絵を描けないんだけど。小説本出してんの」
 驚いた。その男は未だやっていると言うのか。
「そ、そうなのか……」
「お前、うわあ……って思っただろ」
「被害妄想じゃないか……?」
 ……彼は、いつ頃だっただろうか。そうした事をやめた。……ああ、そうだ、と彼は一人手を打つ。


 会社に入って二、三月経た程度の頃だっただろうか。彼は仕事において致命的なミスを犯した。まだ新人の領域であった彼に何故その仕事が回って来たか分からない――だが、その回ってきた仕事はその瞬間の会社の運命を左右するような物であった。
 突然の大仕事に右も左も分からず、上司の教えを乞うがはぐらかされ、先人の知恵を漁っても前例が無い――頼るべき自身の経験もあまりにも少なすぎる。そしてそれは失敗の烙印を押された。
 理不尽な状況であってもそれは情状酌量の要因にされず、上司から耐えがたい叱責を受ける。そうして彼は荒れた――しかしすぐに彼はその状況を抜け出す手段を見つけ出した――

『自分が上に立てばいい』

 そう、あまりにも単純な答えだ。彼はそれを言うだけでなく、実行した――それからの彼の仕事ぶりは周囲から見れば異常なほどであり、仕事の虫とでも言うべき存在と化した。
「あいつ、すごいなあ」
「あいつは目を掛けるべきだ。素晴らしい成果を出している」
 他の事には目もくれず、ただひたすら目の前の仕事をこなし、無い仕事も自ら探しだしそれもまたこなし、それでも足りない彼は、嫌いな上司を相手にしてまで人手の足りない仕事の穴埋めに入れてもらえるように頼み込む。
 あらゆる仕事で成果を出し、その結果は蓄積され、そして今年遂に弾けた。これこそが彼の出世の道のり。

「やった……」

 彼は目的を果たした。あの上司は逆に役に立つ事無く自らの立場を追われる羽目になった。そしてそのポストに彼は着き、しかしすぐに更に上に上がっていった。
 もうこれより上となると重役と言うような立場が迫ってくる。そこまで行ってしまえば、自分が理不尽な立場に立たされることもかなり少なくなるだろう。この会社は、社間での地位は高いのだ。余程誤った判断を下さなければ問題は無いのだろう。


 だからであろう。忘れていた事を思い出したのだ。
「お前、就活の最中でも結構絵描いてたよな。何かトラブルでもあったのか? 何か他人から自分勝手な要求受けたりとか」
「ああ、いや。そういう事は無いんだけど」
「そうなのか? ……うーん、悪いな、掘り返さない方がよかったか」
「どうだろう」
 理不尽に怒り、我を忘れ、いつの間にやらそれもまた忘れ去られていた。あれほど好きだった、絵を描くと言う事をこの数年間犠牲にしてこの成功を収めたのか。考えようによっては、確かに代償の成果となり得るだろう。人間、娯楽はあまりにも大事だ。

「僕って、会社入る辺りで絵の事って言ってた?」
「あー……うん。言ってたな」
「何て言ってたっけ」
「えっと……確か」

『仕事に就くのなんて金のため。僕は本当は好きな絵を描いてられればいいんだ』

 ……ああ、そんな事を言ってたのか。そこまで言うような事を忘れていたというのか。確かに思い出せばあの時の元上司への怒りが今でも沸々と湧いてきた。力が二倍になりそうだ。マンガのような展開で言うならば、怒りで覚醒出来そうだ。いや、覚醒した結果がこれなのだろうか。
「そこまで言ってたんだな……ああ、そうだ。そうだった」
「思い出したのか……って、忘れてたのか! ……あ、もしかして」
「最近、少しだけ余裕が出て来たからな。そうじゃなかったらさっきの表情すら出てこなかったかもしれない」
「……原因はあの頃かあ」
 友人もこの原因に思い当たったようだ。あまりこのように深く話をする事が無かったというのにやはり友人は伊達では無いのだろうか。
「全く、本当に嫌な男だった」
「ほんとだよ。俺もアレには困らされたな」
 しばらく話は外れ、かつての上司の罵倒大会が始まる。
「臭かったし、責任擦り付けるし本当最悪だよ」
「あたし、あの人にセクハラされた!」
「ああもう、思い出すだけで苛々する」
 ヘイトをこれほど溜めこんでいたのか……と、自分の敵のような相手でありながら若干驚いてしまう。しかし、そういう話もずっと続くわけでは無く、少しずつ収まっていく。

 若干彼の周りが静かになった頃、彼自身はまた自分の趣味の事を考えていた。
「変わったな」
「……ん、何が?」
「いや、絵を描いてた頃はさ。現実は基本的に知らなかったから。その、何て言うんだろうな」
 溜息が出てくる。あまり近くが見えない。遠くを見るように、しかしそれも見えず、ただふらりと目を動かす。
「何かは気付いたけどさ……もうあの頃のようには描けないかも、今からやっても」
「描いてちゃ勘ぐらい取り戻すって」
「それだけじゃない」
 友人の言う事は真理では無い。確かに、その問題もあるだろう、しかし……
「あの頃のような綺麗な風景は描けないかもしれない。もう、あんまり夢見がちになれそうにない」

 何かが目から出てきた。不思議だ。何も入っていないのに。
「あんなに好きだったのにな」
 袖で拭う――一応、止まった。でも、正体は分かったけれど、その霧は全く晴れそうにない。悲しい――さっき聞いたあの曲にも劣らないかもしれない。
「……とりあえずもう一度描いてみろよ。現実じゃなくて夢を見る事も出来るさ」
「……出来るかな」
「出来るさ」

 無責任な言葉だ……もし見れなかったらどうするのか。
「でも――」
「ん?」
「……まあ、一応やってみるよ。まあ、嫌いになったわけじゃないしね」
 あんまり前向きになれない――けれど、もしかしたらやったら変わるかもしれない。



 家に着いた彼は、それを取り出した――一本の鉛筆。一枚の紙。そしてそこに線を引き、そして――何が出来るだろう。

 いい物が出来るかもしれない――悲観的な気分の中にも、少しだけそんな思いがあった。願わくば、そうなりますように。
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