-4-

「おねーちゃん、おねーちゃん!」
 少女の近くを、より幼い少年が跳び上がりかねないほどに元気よく駆けまわる。それを幸せそうに見つめる少女。仲のいい姉弟のように見える二人。
「おねー、……いたっ!」
 突然、少年はその足をもつれさせて転んでしまった。驚き、すぐに駆け寄り見ると少年は膝を擦り剥いていた。少年は涙を目に浮かべるが、少女が持ち合わせの道具で応急処置を済ませてみせると何とかそれを流す事を堪え、笑って見せた。
「ありがとう、おねーちゃん!」
「気を付けてね」
 少女もまた笑顔で応えると、少年はまた立ち上がり、元気に跳ねはじめた。

「おねーちゃん、だいすき!」
「ふふ、わたしも大好きだよ」

-7-

「おねえちゃん、見て見て!」
 少年が少女に見せた紙には赤い文字でたくさんの丸と100という数字が踊っていた。つまり、簡単に言えば、「よく出来ました!」
「わあ……凄いね」
 少女は今日も笑顔を見せ、少年の頭を撫でる。少年はその結果も勿論ではあるものの、少女に褒められた事が何よりも嬉しいようだった。この日も二人は笑顔で向かい合った。
「あっ、そうだ。本よみの宿題があるんだ」
「今やっちゃう?」
「うん! えっと、えっと……むかしむかし、あるところに、……」

-13-

「ふう、疲れたなあ」
 少年が帰ってくると、少女は今日も笑顔で出迎えた。このいつも通りが少年を癒してくれる。大好きな「おねえちゃん」のおかげで、どれだけの事があっても少年は元気に過ごすことが出来る。
「お疲れ様。今日はどうだった?」
「部活が長引いたよ。明日休みだからいいけど」
「うん。じゃあ明日はゆっくり休んでね。そうだ、今日の晩御飯はカレーだよ」
「本当!?」
 大好物が出てくると知った少年は満面の笑みを見せた。それを見せてくれる事。少女にとってもまた、少年のおかげで毎日を楽しく過ごせている。

-19-

 少年、否、青年がそれに気づいたのはいつだっただろうか。
「ただいま」
「お帰り。どうだった?」
 少女は今日もまた……10年以上前と全く変わらない笑顔を見せてくれている。青年もまたそれに応える。
「カレーの匂いだな。そういえば腹減ったなあ」
「今日はツナ入り。他にもいろいろ入れて見たんだけど」
「ツナか。そういえばコンビニでツナカレーって見たなあ、合うんだなそれ」
 
 今となっては彼女を姉と呼ぶのは憚られる。青年はすっかり大人の一歩手前と言った所だが、姉のはずの少女は最早青年の妹と言った外見である。いつ頃かは分からないが、もう直感で分かっていた。姉は特別だ・それも、一万人に一人とか百万人に一人とかそんなものではない。

 人間ですら無いのだろうと。

-23-

「おめでとう!」
「おめでとー!」
「くっそ、何であいつが先に結婚しちまうんだ! 俺も結婚したい!」

 青年は、一人の女性と共に並んでいた。「姉」とは違う、別の人物だった。向かい合い、互いに笑い合う。
「あ……」
 ふと、別の人が見えた。いつも笑顔で笑い合っていたあの人。
「どうしたのよ、いきなり」
「ああ、何でも無い」
 結婚……生涯を共にするであろう相手との誓い。その人と共にならば未来を歩む事が出来るという想い。彼もまた、その日を迎えたのだ。しかし、彼は心につかえを感じていた。

 式の後。新婦がその家族に色々な気持ち伝えている時、彼もまた「姉」に感謝を伝えていた。
「ありがとう、「おねえちゃん」。俺がこんなになれたのも」
「ううん、わたしがやった事は大した事じゃない。それでね……」
「ん?」
「わたしはもう一緒にいる事は出来ないけれど……いつでも見守っているからね」
 少女は少し寂しそうに言う。一緒には居れない……結婚すればそれまで同居していた家族と離れる事も当然だ。しかし彼女のそれは普通のそれとは違う、そんな気がした。
 そしてそうなる事。彼もまたそんな気がしていた。だからこそ、彼は最後まで迷っていた。結婚した相手も好きな相手だ。だが、その相手と「姉」を天秤にかける事そのものが、彼には辛すぎた。
 だけど、一度その気持ちを漏らしてしまった時。彼女はその時も寂しそうな顔をした……しかし、それは今以上だった。

『わたしは君にたくさんの幸せを貰ってきたんだ。だから今度は、もう一人の大切な人を幸せにしてあげて』


「ありがとう」
 青年は姉に、最後かもしれない笑顔を見せた。少女の寂しそうな顔も、それを聞くとまたいつもの笑顔に戻った。
「わたしも……ありがとう!」

 いや、今まで以上の笑顔だったかもしれない。

-87-

 妻が先に逝ってから二年が経過した頃、彼もまたその元へ行く時が来ていた。思い残す事は無い。彼は、己の成すべき事を全て成したと感じていた。妻もまた、彼に言っていた。ありがとう、を……

「…………ああ」
 今は夜中。彼の子ども達は朝起きてから見る事だろう。最後のこの瞬間。一人でいながらも、彼は満たされた気持ちだった。そんな時、ふと思い出す事がある。
(見ていてくれたかな)
 幼い頃を見守ってくれていた姉。彼女はどう思うだろう。誇りに思ってくれるかな……そう思えば。


「だいじょうぶ、見ていたよ」
「…………!」
 もう動かない体で、ただ目を少し動かしてそこを見やれば、そこには姉がいた。あの笑顔と共に……彼女はその手を握った。
「お疲れ様。ずっと頑張っていたね」
 彼女は全てを見ていた。その中で悲しむ事は無かった、と。

「ゆっくり、休んでね」
 彼女は傍を離れなかった。きっと、その時まで傍に居てくれるのだろう。霞んだ視界の中でも眩いほどに見えている。

 もう、眠い。もう少しこの目に焼き付けたいとは思うけれど、でも安心だった。彼女の笑顔は、彼の人生の終わりを彩ってくれている。それが正しかったのだと、改めて思う。


(ありがとう)
 僅かに口を動かす。それは声にならなかった。既に閉じてしまった目を開く事は叶わない、しかしこの言葉が届いてくれた事をまた、彼は紛れも無い事実だと分かっていた。

「ありがとう」
 声は重なった。そして二人は消えて行った……新たな幸せを未来に残して。

inserted by FC2 system